風の色

風の色(十六)
2021.12.05

風の色(十六)
かつて、私が尊敬する故松生先生は「もし人類のヘソの緒を引いたとしたら、そこから総てのものが出てくる」と、言われた。
その至言の指すところ、そのヘソの緒に連なる糸こそ尊い“いのち”に他ならないことが漸く氷解できた。
人類総てが、過去から現在そして未来に至るまでこの不易な糸の道を歩んできた点、まさに“一筋の道”に連なっていると言える。
それは、自ら求めて得られるという道ではなく、すでに久遠に頂いている有り難い道なのである。
その意味でもともと浄土の世界と言ってよい。
ところが、我々はその道を忍難の娑婆としか見ない。でも、“いのち”そのものから観ればはやはり浄土なのである。
法華経は、娑婆世界をもともと常寂光土という理想社会と説いている。
当然そこに住む凡夫である我々は、浄土に包まれ、一人も例外なく本佛〈大慈悲心〉の意(こころ)を内包していることになる。
よく、自暴自棄になった若者が「頼みもしないのに親が勝手に生んで」と、言って、まるで自分が虫ケラ同然の不幸者と見做して、親を憎み哀れな人生を呪う姿に出会う時がある。
もとより人間の存在は、この世にとって尊く必要な存在として前述の“いのち”に連なっているものである。
我々は、この大前提を忘れずに伝えていかなければ前の不幸を繰り返すことになる。
例えば、母親が言葉も知らない緑児に向かっていとおしく語りかける姿は、まさに本佛の意を内包していなくては出来ない行為であり、向い合う緑児は、その行為によってはじめて尊く必要な存在になる。
母子に限らず相互に尊く必要な存在が真の浄土ではあるまいか