風の色
- 祈りと信仰(五十六)
- 2023.12.24
祈りと信仰(五十六)
いつも自分である限り、つい自分の利を優先してしまうものです。
所で、私ども凡夫は、生れてこの方、果して、この現実の根源的な「自分」に正面から出会ったことがあったでしょうか。
時にはごまかし、或いは逃げたり隠したりして中々会うことを避けようとします。
全体の中で生かされている自己と気がつけば自分にとって害と思っても他に利を与えれば害転じて利となるは道理なのです。
その避けようもない「自分」をもっている限り、必ず分別をもって判断いたしますので所で、本来の自己なるものは、その奥に潜んで何者かに呼び掛けられるのを待ち望んでいるものです。
ご本佛のはたらきがそれなのです
真の自己に目覚めるとはご本佛に抱かれている状態で佛の中に自己をみたときと云えましょう。
- 祈りと信仰(五十五)
- 2023.12.17
祈りと信仰(五十五)
本来、佛教は、私たち自身が佛の子としてこの世に存在している事を前提に考えなければよく理解できません。
そして、このことを信ずる心にはじめて佛教的世界観や人生観が生れてくるものと思います。
佛の子としての自覚があることによって自分があらゆるものに生かされていることに気付かされるものです。
いわゆる「自分」は、エゴ(自分本意)ですから佛子であることに気がついていない状態です。
すべてが佛の世界の中に抱かれている事がわかれば、「自分」から解きはなれた真実の「自己」に出会うもの(成仏の姿)なのです。
真の信仰というものは、その場その場で自分の尺度で転々する(ご都合主義的信仰)ものではない筈です。
所で、人間の心というものは、古来より一瞬たりとも同じ思いを持続することが不可能に近く、ある意味で、でたらめな所があります。
誰しも心から信ずるものが欲しいと思うものです。
信じていた筈のものが突然裏切られたような気持ちになることがあります。
親子・夫婦の関係でも信じきって生活していたところに信じられないようなことがおきてしまい慌ててわが身を失いかけます。
しかし、ここで大切なのは、私ども凡夫は、その何を信じたのかです
- 祈りと信仰(五十四)
- 2023.12.10
祈りと信仰(五十四)
『自分という名をもった人間』
私的な事で恐縮ですが、かって、久慈高校で二年の学級担任の時ですが、最初からまとまりに欠けるところがありまして、どうしたら協力していけるかの問題を、およそ一週間に及び徹底して議論が尽きるまで延々と話合いをさせた経験があります。生徒は、日を追ってイライラした状態が増す一方、何とかまともな意見が大勢を占めるまでと根気強く耐えましたが、思うようには至りませんでした。
冒頭の言葉は、その後、教室の後の壁に書いて、以後の学校生活のテーマにと呼び掛けたものです。前述の教室風景は、まさに此の現実社会の縮図に外なりません。みんな様々な憶測と価値基準で利害を衝突させているのです。
法華経は、この利己社会のために釈尊が遺しおかれたみ教えです。
他に自分の欲を求めることがなく、先ず心から自分より先に他に与え、かつそれによって他の苦を少しでも楽にしてあげる慈悲心を大切に教えております。
これを「抜苦与楽」と申しております。
この抜苦与楽を行なっているときが真の自己に出会っている時と云えます。
「自分という名を持った人間」から「抜苦与楽」の自己への橋渡しが法華経と思って戴ければ幸いです
- 祈りと信仰(五十三)
- 2023.12.03
祈りと信仰(五十三)
どの様な社会にあっても、すべての人間が苦しみ、悩み、そして自分自身ばかりでなく多くの人々が同じような状態でいることを示唆して、その解脱(解き離れる・彼岸・涅槃の境地・〈ニルバーナ〉)の道を説かれたものが、仏教であり、釈尊の説かれた教えでもあります。
いつも出発点がここにあることを銘記しておくべきものと思います。
どの経典もこのことに対して様々な角度から説いたものと言えます。
しかし、経典も最後の方になって法華経や涅槃経のように究極の教えを説いて人間の真実の姿とは何かを説いておかれました。
法華経の法師品第十章に『衆生を愍むが故に、此の人間に生ずるなり云々』と。
本来、私どもは、この世を希望して生れたものであることが説かれております。
真実の自己とは、実にこの辺に見え隠れているようです。
つまり、真の自己を知ることによって彼岸の道が開かれてくるものといえます。
《あなたの人生において必ず出会わなければならない人とは、自分です。》
- 祈りと信仰(五十二)
- 2023.11.26
祈りと信仰(五十二)
「深く因果を信じて一実の道を信じ、佛は滅したまわずと知るべし」
法華経観普賢菩薩行法経法華経の中に、法華経を広めることについて、釈尊の御在世ですらなかなか難しく、まして釈尊滅後の末法の濁乱であるこの世においては尚更のこと怨みや嫉みが多いので、そこを忍んで菩薩行を実践していけば、必ずその人の周りには如来の遣わした変化の人が現われて、守護してくださる。
能く能くこのことを信じて法華経の実践に精進することを説いている。
所で、この世に無垢のまま生を受けた筈の人間が、娑婆の汚泥に染まるにしたがい疑いの心を身につけてしまい、正直に信ずる心を失いかけてしまった。
これも持って生まれた悲しい業といえる。
しかしながら、有り難いことに元々から佛性を備えているが故に、私たちは必死に信ずるものを求めて生きている。
所で、同じ信ずる心といっても様々である。
自己流で作り上げた世界観を信じて生きる場合と、釈尊以来の法華経の世界観を信じて生きる場合がある。
菩薩行の実践とは、妙法蓮華経の教えを一切疑わず心から信じて行うまさに求道の姿であり、後者の立場である。大法の中に生きるのと自己流の世界観に生きるのとでは天地の違いである。
ご本佛様は貴方のすぐ傍に居られる。
だからこそ、まず大法を素直に聞く心を育ててご本佛様の大慈悲心に生かされたい。
一実の道のもつ意味は甚深である。
- 祈りと信仰(五十一)
- 2023.11.19
祈りと信仰(五十一)
ことわざに、「人の一寸は見ゆれど、我が一尺は見えず」とある。
日頃から、我が心の内を見ないでいると、つい他人の欠点だけが目につきやすいものである。
その心の中を覗いてみると、他人どころでないことに気がつく。
そこで、次の文である。
「しばしば他面を見るに或時は喜び、或時は瞋り、或時は平らかに、或時は貪り現じ、或時は痴を現じ、或時は諂曲なり、瞋るは地獄、貪るは餓鬼、痴は畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平かなるは人也。云々」
日蓮聖人の御遺文『観心本尊鈔』より
この文は、一般に六道輪廻と云って我々凡夫の心の有様を示されたものである。
人間は、一生の間この繰返しで終わったらどこにも救いがない。
どれを取っても苦の種だからである。
かといって、誰でも進んで悪を好む人はいないばかりか、出来ることなら心根は優しく、争いもなく皆等しく幸せを望んで生きようとしている。
一体何故だろうか。
それは、もともと佛様のような慈愛の心が同居しているからに他ならない。
それがたまたま隠れて見えないだけなのである。
つまり同居していながら中々出会えないでいる。
或る人は、形は人間なれど心は動物のような存在を真に人間の心たらしめるのが人生の目的と云ったが、当を得たものと云えよう。実は、本願と云って心に住む同居人(ご本佛様)はあなたと出会うことを願っている。
- 祈りと信仰(五十)
- 2023.11.12
祈りと信仰(五十)
『世をあわれみ人を助けよ、これわが罪を消し行く末の悪をのがるる道なり』
日蓮大聖人御遺文【開目抄より】
最近の事ですが、「成る程なぁ」と感心させられた事を申し述べてみたいと思います。
私の友人ですが、ご夫婦を柱にあるお店を経営していまして、時々お邪魔する機会があります。
もとより人情深く世話好きでいつも笑みの絶えない友人はこれといった趣味や遊びもしない仕事一筋の人生、奥さんはといえば、ご主人をよく助ける一方、忙しい最中にもかかわらず大変な読書家でしかもその内容が佛教に関する本というのでありますから敬服の念しきりであります。
さて、私が関心したというのは、この奥さんはいつも佛の世界に生かされているような気がしたのです。
何故かと申しますと、底抜けの明るさであります。きっとこの明るさが家族はもとより、お客さんなど日々に接する人々全体にどれほどの救いを与えているかと思えたからです。
そして、ご主人である友人の笑顔は倍にして奥さんからも頂いているのだと思い、この仲睦まじいご夫婦のお人柄に心がいつも洗われるのです。
この明るさの秘訣は宗教的な本を読んでその知識から得たものというより、もともとその奥さんに備わっていた佛性(救済・成佛の根源)がその本によって呼び覚まされたものではないかと思いました。
つまり本を読むことによって何かをつかみそれによって自己を高めたいという姿勢が心の奥に眠っていた人間本来の魂を呼び起こしたのでありましょう。
この明るさは、まさに自らを燈火として生きる佛様の姿そのものだからであります。
- 祈りと信仰(四十九)
- 2023.10.29
祈りと信仰(四十九)
「深く因果を信じて一実の道を信じ、佛は滅したまわずと知るべし」
法華経観普賢菩薩行法経法華経の中に、法華経を広めることについて、釈尊の御在世ですらなかなか難しく、まして釈尊滅後の末法の濁乱であるこの世においては尚更のこと怨みや嫉みが多いので、そこを忍んで菩薩行を実践していけば、必ずその人の周りには如来の遣わした変化の人が現われて、守護してくださる。
能く能くこのことを信じて法華経の実践に精進することを説いている。
所で、この世に無垢のまま生を受けた筈の人間が、娑婆の汚泥に染まるにしたがい疑いの心を身につけてしまい、正直に信ずる心を失いかけてしまった。
これも持って生まれた悲しい業といえる。しかしながら、有り難いことに元々から佛性を備えているが故に、私たちは必死に信ずるものを求めて生きている。
所で、同じ信ずる心といっても様々である。
自己流で作り上げた世界観を信じて生きる場合と、釈尊以来の法華経の世界観(大法)を信じて生きる場合がある。菩薩行の実践とは、妙法蓮華経の教えを一切疑わず心から信じて行うまさに求道の姿であり、後者の立場である。大法の中に生きるのと自己流の世界観に生きるのとでは天地の違いである。
ご本佛様は貴方のすぐ傍に居られる。だからこそ、まず大法を素直に聞く心を育てゝご本佛様の大慈悲心に生かされたい。
一実の道のもつ意味は甚深である
- 祈りと信仰(四十八)
- 2023.10.22
祈りと信仰(四十八)
今の日本人はどうなっているの?
そんな声が世界中の国々から問いかけられているようでならない。
コメの問題一つとっても、世界に向かって何一つ説得力を持てない。
そればかりか日本全体が危急存亡の前兆かに報道されて一層その主食を守るための正当論で押し通そうとしているようでならない。
ひるがえって、今までの金権主義の横行、飽食果てはグルメ時代と次から次へと有り余る食べ物に対する無節操な国民と聞けば尚更のこと、今更自分等の生きることだけを理解してくれと頼んでも誰が素直に「ハイ」と云ってくれるだろうか。
どうしても「あなた」より「私」が優先する利己主義でなくて何だろう。
インドのカルカッタでマザー=テレサは、救民活動の最中、貧しいテントの中にいる飢餓で今にも死に逝く母とその子供に向い自分のお弁当を与えようとすると、その母は無言でお弁当の半分を指で縦に引き、残りの半分を隣に住む同じ境遇の母児に与えてくれと目で伝えている姿に、崇高な神様を見たと云われる。
何と至妙なる哉!この世の出来事かと万感胸に迫る。
まさに貧しいが故に慈悲の心一つで人間の魂が発揚する浄土が現に存在していることである。
ご本佛様や神様も、その量り知れない尊い生き方を本当の願いとして私たちに語りかけている。
それに応えていく実践が欲得無しの無、私の祈りではなかろうか。マザー=テレサの祈りと心を鏡として生きたいものである。
- 祈りと信仰(四十七)
- 2023.10.15
祈りと信仰(四十七)
今月の一日の盛運祈願祭の法話の折に触れた信仰態度について、更に言及したいと思います。
信仰生活の基本的な態度と申しますのは、結局は、日々にご本佛によって生かされていることへの感謝の気持に尽きます。
佛教ばかりでなく、世界的宗教と言われるキリスト教にしても、イスラム教にしても、所詮はこの心で生きることを教えていると思います。
森羅万象この世に存在する総てのものはご本佛の分身でありますから、仲良く共存共栄せんとしています。人間だけが生きる世界でないことは確実です。
日蓮大聖人もよく太陽や月に向かって自我偈を読まれたり、身延山でのご生活の折も、風やそれに揺れる草木にも、流れる川の水の音にまでも、常に妙法を唱えておられます。
そこには、只々有り難いの一心と受け止めさせていただいております。
さて、私ども凡夫は、毎日のように不平不満の中で生きているのが正直なところです。
ですから益々苦しみと迷いが交叉して絡み合い一向に安楽な心に到らないのも当然であります。
所が、本当の信心を行えば自然にご本佛の御心がいただけるのですが、中々その信心とやらが実行出来ないのです。
そこで、その信心の一歩手前で行いたいものの中で大切なのが懺悔する気持であります。
これを飛ばして只々願い事ばかりの信心は形は似ていてもご本佛には、中味は偽物と映ることになるのであります。
まず、懺悔の心をもって神佛に向かう事が初心と心得たいものです。私たちがてらうことなく素直になって深い罪を悔いる、その心を本気になって養う態度をもってこそ、自ずから感謝への心につながる佛道と言うものではないかと思いますが、如何でしょうか。