風の色

祈りと信仰(十二)
2023.02.05

祈りと信仰(十二)
ことわざに、「人の一寸は見ゆれど、我が一尺は見えず」とある。
日頃から、我が心の内を見ないでいると、つい他人の欠点だけが目につきやすいものである。
その心の中を覗いてみると、他人どころでないことに気がつく。
そこで、次の文である。
「しばしば他面(他人の顔)を見るに或時は喜び、或時は瞋(いか)り、或時は平らかに、或時は貪(むさぼ)り現じ、或時は痴(おろか)を現じ、或時は諂曲(てんごく<こびへつらい、ひねくれている意>)なり、瞋るは地獄、貪るは餓鬼、痴は畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平かなるは人也。云々」
日蓮聖人の御遺文『観心本尊鈔』より
この文は、一般に六道輪廻と云って我々凡夫の心の有様を示されたものである。
人間は、一生の間この繰返しで終わったらどこにも救いがない。
どれを取っても苦の種だからである。
かといって、誰でも進んで悪を好む人はいないばかりか、出来ることなら心根は優しく、争いもなく皆等しく幸せを望んで生きようとしている。
一体何故だろうか。
それは、もともと佛様のような慈愛の心が同居しているからに他ならない。
それがたまたま隠れて見えないだけなのである。
つまり同居していながら中々出会えないでいる。
或る人は、形は人間なれど心は動物のような存在を真に人間の心たらしめるのが人生の目的と云ったが、当を得たものと云えよう。
実は、本願と云って心に住む同居人(ご本佛様)はあなたと出会うことを願っている

祈りと信仰(十一)
2023.01.29

祈りと信仰(十一)
かつて、日本の総理大臣が国政の舵取りを誤らないために、日頃から精神を鍛え平常心を身につけるため鎌倉まで出掛けて坐禅を組んだことは、新聞や雑誌などで既に知られている。
今風で云うと実に「カッコイイ」のである。
また、会社の幹部研修や一般に知識人といわれている人々の中にも、好んで坐禅が取り入れられている。
何か不思議な魅力があるようだ。確かに、静寂のままに自己との徹底した葛藤を通じて真の佛心を会得するに違いないが、むしろ、独房で従容として壁に向かっている死刑囚の姿の方が遥かに真実味があり嘘が無い。
要するに短期間で坐禅を修練して人間の精神活動が佛心と同様な状態であるかのような錯覚を起こしているだけである。
こういう現象を、ある禅の師家が「平常心」というより「横着心」と一刀両断している。
所で、我々は、他人事のようにこの「横着心」を笑っておれない。
今の世の中、何でも面倒臭がる傾向にある。
その場の窮地を免れるために出来るだけ楽する方途を探すように出来ている。
金銭一つで事足りる傾向が氾濫しているのが好い例である。
それが昂じて更に手抜きである。
楽することと手抜きは異曲同工である。
特に今は家庭(特に親子の関係)や教育に手抜きが波及しつつある。
何はともあれ、これだけは歯止めしなければなるまい。
「横着心」に付ける薬は無いが、せめて勧んで無心の菩薩行(世の為人の為に自分の身命を惜しまず尽くす行為)に精進するにこしたことはない。
まして、信心に手抜きなどがあつたら元もこもない。

祈りと信仰(十)
2023.01.22

祈りと信仰(十)
今の世界情勢は激変の一途を辿っている。
特にソ連のゴルバチョフ大統領がペレストロイカ(改革・世直しの意)を提唱してから早五年の歳月が流れようとしている。
東欧諸国も西欧に目を向けはじめた。そこに共通する人々の心は自由で開かれた政治と豊かな社会への憧れを示している。
さて、世界は、時々刻々飢餓で尊い命を失っていく国もあれば、わが国のように世界一の金持ち国もある。
かつて二十数年前のこと、繁栄の絶頂にあったアメリカ合衆国の或る市民が、崩れゆく家庭の有様を見て、「すべてはお金が物語っている」と。漏らした言葉は、今の私たち日本人にとって他人ごととして済まされまい。
金銭欲の裏では、家庭の崩壊、無軌道で自由な振る舞いの氾濫、陰湿な犯罪、教育の荒廃等々行く末を恐れぬものはない。
実は、ソ連や東欧諸国も同様な問題に悩んでいる。とすれば、今や世界の人が心のペレストロイカを自己に問わなければならない時と思う。
所で、釈尊やキリストやマホメットが今の世界をご覧になったらどのように言われるだろうか。
どの聖人も口を揃えて「我々の時代と何一つ変わっていない」と言われるに違いない。
そして「人類の歴史は時間と共に同じことを繰り返していたに過ぎない」と。
或る著名な方が、この世の乱れは「宗教」が発展しないのが原因と言った。
果たしてそうだろうか。
もともと「宗教」なるものは発展するものでなくいつでもどこでも永遠に存在するものである。
もともと汝自身が関わらないだけである。
信仰は、まさにその存在を解く鍵と言える。

祈りと信仰(九)
2023.01.15

祈りと信仰(九)
「隠れての信あれば顕れての徳ある也」
日蓮聖人ご遺文《上野殿御消息》
よく「風雪の人生」等と云えば、世間の荒波に辛抱強く生き抜いた方の事である。
淋しいかな、今の世の中では老樹と同じく過去のものとなった。
そもそもこの表現自体、何かやるせない人生の悲しみを含んでいる。
世間や自己に挫折しつつも、なお踏ん張って大志を貫こうとした足跡を半ば称揚したものであろう。
一方、同じ人生を樹木の年輪に喩える時がある。
自然の摂理は間違いなく月日を刻んでいく。
人間の営みとは道理を異にして虚偽がない。
所で、人間にも樹木の年輪に匹敵するものが沢山あるが、目に見えてこれだと断言するものはない。
せいぜい体力の限界を感じたり、しわが増えたとか、腰が曲がってきたことくらいで、いたずらに年を数えても老樹のような風格は期待出来ない。
老樹は無言で我々の心に「人生の心根」を教え、気持をなごませてくれる。
真の隠徳とはこのようなものであろう。
信仰のある人は、逆に風雪もある。
心を磨く生き方だから覚悟の上である。
真の信仰は自らを灯すのみならず他をも明るくするものだから、重ねれば信心の輪が刻まれていく。
「心の年輪」といえる。
これは、自行利他にわたる信仰年齢であって、高齢だから即隠徳とはならない。
心は口ほどにものを云うが如く、佛のお姿でもある。
とくと老樹の心を知るべきである。

祈りと信仰(八)
2023.01.08

祈りと信仰(八)
深く因果を信じて一実の道を信じ、佛は滅したまわずと知るべし。
(法華経観普賢菩薩行法経)
法華経の中に、法華経を広めることについて、釈尊の御在世ですらなかなか難しく、まして釈尊滅後の末法の濁乱であるこの世においては尚更のこと怨みや嫉みが多いので、そこを忍んで菩薩行を実践していけば、必ずその人の周りには如来の遣わした変化(へんげ)の人が現われて、守護してくださる。
能く能くこのことを信じて法華経の実践に精進することを説いている。
所で、この世に無垢のまま生を受けた筈の人間が、娑婆の汚泥に染まるにしたがい疑いの心を身につけてしまい、正直に信ずる心を失いかけてしまった。
これも持って生まれた悲しい業といえる。
しかしながら、有り難いことに元々から佛性を備えているが故に、私たちは必死に信ずるものを求めて生きている。
所で、同じ信ずる心といっても様々である。
自己流で作り上げた世界観を信じて生きる場合と、釈尊以来の法華経の世界観(大法)を信じて生きる場合がある。
菩薩行の実践とは、妙法蓮華経の教えを一切疑わず心から信じて行うまさに求道の姿であり、後者の立場である。大法の中に生きるのと自己流の世界観に生きるのとでは天地の違いである。
ご本佛様は貴方のすぐ傍に居られる。
だからこそ、まず大法を素直に聞く心を育ててご本佛様の大慈悲心に生かされたい。
一実の道のもつ意味は甚深である