風の色

祈りと信仰(五十三)
2023.12.03

祈りと信仰(五十三)
どの様な社会にあっても、すべての人間が苦しみ、悩み、そして自分自身ばかりでなく多くの人々が同じような状態でいることを示唆して、その解脱(解き離れる・彼岸・涅槃の境地・〈ニルバーナ〉)の道を説かれたものが、仏教であり、釈尊の説かれた教えでもあります。
いつも出発点がここにあることを銘記しておくべきものと思います。
どの経典もこのことに対して様々な角度から説いたものと言えます。
しかし、経典も最後の方になって法華経や涅槃経のように究極の教えを説いて人間の真実の姿とは何かを説いておかれました。
法華経の法師品第十章に『衆生を愍むが故に、此の人間に生ずるなり云々』と。
本来、私どもは、この世を希望して生れたものであることが説かれております。
真実の自己とは、実にこの辺に見え隠れているようです。
つまり、真の自己を知ることによって彼岸の道が開かれてくるものといえます。
《あなたの人生において必ず出会わなければならない人とは、自分です。》

祈りと信仰(五十二)
2023.11.26

祈りと信仰(五十二)
「深く因果を信じて一実の道を信じ、佛は滅したまわずと知るべし」
法華経観普賢菩薩行法経

法華経の中に、法華経を広めることについて、釈尊の御在世ですらなかなか難しく、まして釈尊滅後の末法の濁乱であるこの世においては尚更のこと怨みや嫉みが多いので、そこを忍んで菩薩行を実践していけば、必ずその人の周りには如来の遣わした変化の人が現われて、守護してくださる。
能く能くこのことを信じて法華経の実践に精進することを説いている。
所で、この世に無垢のまま生を受けた筈の人間が、娑婆の汚泥に染まるにしたがい疑いの心を身につけてしまい、正直に信ずる心を失いかけてしまった。
これも持って生まれた悲しい業といえる。
しかしながら、有り難いことに元々から佛性を備えているが故に、私たちは必死に信ずるものを求めて生きている。
所で、同じ信ずる心といっても様々である。
自己流で作り上げた世界観を信じて生きる場合と、釈尊以来の法華経の世界観を信じて生きる場合がある。
菩薩行の実践とは、妙法蓮華経の教えを一切疑わず心から信じて行うまさに求道の姿であり、後者の立場である。大法の中に生きるのと自己流の世界観に生きるのとでは天地の違いである。
ご本佛様は貴方のすぐ傍に居られる。
だからこそ、まず大法を素直に聞く心を育ててご本佛様の大慈悲心に生かされたい。
一実の道のもつ意味は甚深である。

祈りと信仰(五十一)
2023.11.19

祈りと信仰(五十一) 
ことわざに、「人の一寸は見ゆれど、我が一尺は見えず」とある。
日頃から、我が心の内を見ないでいると、つい他人の欠点だけが目につきやすいものである。
その心の中を覗いてみると、他人どころでないことに気がつく。
そこで、次の文である。
「しばしば他面を見るに或時は喜び、或時は瞋り、或時は平らかに、或時は貪り現じ、或時は痴を現じ、或時は諂曲なり、瞋るは地獄、貪るは餓鬼、痴は畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平かなるは人也。云々」
日蓮聖人の御遺文『観心本尊鈔』より
この文は、一般に六道輪廻と云って我々凡夫の心の有様を示されたものである。
人間は、一生の間この繰返しで終わったらどこにも救いがない。
どれを取っても苦の種だからである。
かといって、誰でも進んで悪を好む人はいないばかりか、出来ることなら心根は優しく、争いもなく皆等しく幸せを望んで生きようとしている。
一体何故だろうか。
それは、もともと佛様のような慈愛の心が同居しているからに他ならない。
それがたまたま隠れて見えないだけなのである。
つまり同居していながら中々出会えないでいる。
或る人は、形は人間なれど心は動物のような存在を真に人間の心たらしめるのが人生の目的と云ったが、当を得たものと云えよう。実は、本願と云って心に住む同居人(ご本佛様)はあなたと出会うことを願っている。

祈りと信仰(五十)
2023.11.12

祈りと信仰(五十)
『世をあわれみ人を助けよ、これわが罪を消し行く末の悪をのがるる道なり』
日蓮大聖人御遺文【開目抄より】
最近の事ですが、「成る程なぁ」と感心させられた事を申し述べてみたいと思います。
私の友人ですが、ご夫婦を柱にあるお店を経営していまして、時々お邪魔する機会があります。
もとより人情深く世話好きでいつも笑みの絶えない友人はこれといった趣味や遊びもしない仕事一筋の人生、奥さんはといえば、ご主人をよく助ける一方、忙しい最中にもかかわらず大変な読書家でしかもその内容が佛教に関する本というのでありますから敬服の念しきりであります。
さて、私が関心したというのは、この奥さんはいつも佛の世界に生かされているような気がしたのです。
何故かと申しますと、底抜けの明るさであります。きっとこの明るさが家族はもとより、お客さんなど日々に接する人々全体にどれほどの救いを与えているかと思えたからです。
そして、ご主人である友人の笑顔は倍にして奥さんからも頂いているのだと思い、この仲睦まじいご夫婦のお人柄に心がいつも洗われるのです。
この明るさの秘訣は宗教的な本を読んでその知識から得たものというより、もともとその奥さんに備わっていた佛性(救済・成佛の根源)がその本によって呼び覚まされたものではないかと思いました。
つまり本を読むことによって何かをつかみそれによって自己を高めたいという姿勢が心の奥に眠っていた人間本来の魂を呼び起こしたのでありましょう。
この明るさは、まさに自らを燈火として生きる佛様の姿そのものだからであります。

祈りと信仰(四十九)
2023.10.29

祈りと信仰(四十九)
「深く因果を信じて一実の道を信じ、佛は滅したまわずと知るべし」
法華経観普賢菩薩行法経

法華経の中に、法華経を広めることについて、釈尊の御在世ですらなかなか難しく、まして釈尊滅後の末法の濁乱であるこの世においては尚更のこと怨みや嫉みが多いので、そこを忍んで菩薩行を実践していけば、必ずその人の周りには如来の遣わした変化の人が現われて、守護してくださる。
能く能くこのことを信じて法華経の実践に精進することを説いている。
所で、この世に無垢のまま生を受けた筈の人間が、娑婆の汚泥に染まるにしたがい疑いの心を身につけてしまい、正直に信ずる心を失いかけてしまった。
これも持って生まれた悲しい業といえる。しかしながら、有り難いことに元々から佛性を備えているが故に、私たちは必死に信ずるものを求めて生きている。
所で、同じ信ずる心といっても様々である。
自己流で作り上げた世界観を信じて生きる場合と、釈尊以来の法華経の世界観(大法)を信じて生きる場合がある。菩薩行の実践とは、妙法蓮華経の教えを一切疑わず心から信じて行うまさに求道の姿であり、後者の立場である。大法の中に生きるのと自己流の世界観に生きるのとでは天地の違いである。
ご本佛様は貴方のすぐ傍に居られる。だからこそ、まず大法を素直に聞く心を育てゝご本佛様の大慈悲心に生かされたい。
一実の道のもつ意味は甚深である

祈りと信仰(四十八)
2023.10.22

祈りと信仰(四十八)
今の日本人はどうなっているの?
そんな声が世界中の国々から問いかけられているようでならない。
コメの問題一つとっても、世界に向かって何一つ説得力を持てない。
そればかりか日本全体が危急存亡の前兆かに報道されて一層その主食を守るための正当論で押し通そうとしているようでならない。
ひるがえって、今までの金権主義の横行、飽食果てはグルメ時代と次から次へと有り余る食べ物に対する無節操な国民と聞けば尚更のこと、今更自分等の生きることだけを理解してくれと頼んでも誰が素直に「ハイ」と云ってくれるだろうか。
どうしても「あなた」より「私」が優先する利己主義でなくて何だろう。
インドのカルカッタでマザー=テレサは、救民活動の最中、貧しいテントの中にいる飢餓で今にも死に逝く母とその子供に向い自分のお弁当を与えようとすると、その母は無言でお弁当の半分を指で縦に引き、残りの半分を隣に住む同じ境遇の母児に与えてくれと目で伝えている姿に、崇高な神様を見たと云われる。
何と至妙なる哉!この世の出来事かと万感胸に迫る。
まさに貧しいが故に慈悲の心一つで人間の魂が発揚する浄土が現に存在していることである。
ご本佛様や神様も、その量り知れない尊い生き方を本当の願いとして私たちに語りかけている。
それに応えていく実践が欲得無しの無、私の祈りではなかろうか。マザー=テレサの祈りと心を鏡として生きたいものである。

祈りと信仰(四十七)
2023.10.15

祈りと信仰(四十七)
今月の一日の盛運祈願祭の法話の折に触れた信仰態度について、更に言及したいと思います。
信仰生活の基本的な態度と申しますのは、結局は、日々にご本佛によって生かされていることへの感謝の気持に尽きます。
佛教ばかりでなく、世界的宗教と言われるキリスト教にしても、イスラム教にしても、所詮はこの心で生きることを教えていると思います。
森羅万象この世に存在する総てのものはご本佛の分身でありますから、仲良く共存共栄せんとしています。人間だけが生きる世界でないことは確実です。
日蓮大聖人もよく太陽や月に向かって自我偈を読まれたり、身延山でのご生活の折も、風やそれに揺れる草木にも、流れる川の水の音にまでも、常に妙法を唱えておられます。
そこには、只々有り難いの一心と受け止めさせていただいております。
さて、私ども凡夫は、毎日のように不平不満の中で生きているのが正直なところです。
ですから益々苦しみと迷いが交叉して絡み合い一向に安楽な心に到らないのも当然であります。
所が、本当の信心を行えば自然にご本佛の御心がいただけるのですが、中々その信心とやらが実行出来ないのです。
そこで、その信心の一歩手前で行いたいものの中で大切なのが懺悔する気持であります。
これを飛ばして只々願い事ばかりの信心は形は似ていてもご本佛には、中味は偽物と映ることになるのであります。
まず、懺悔の心をもって神佛に向かう事が初心と心得たいものです。私たちがてらうことなく素直になって深い罪を悔いる、その心を本気になって養う態度をもってこそ、自ずから感謝への心につながる佛道と言うものではないかと思いますが、如何でしょうか。

祈りと信仰(四十六)
2023.10.08

祈りと信仰(四十六)
今月は何故か長雨にうんざりして、心もうっとうしい毎日でしたが、ようやく秋のお彼岸を迎え青空を仰ぎ見ることが出来ました。
一方何時しか夕暮れの雲間にトンボの群れかう風情に、急に秋の深まりを感じます。
さて、毎月いささか御法門の一端を申し述べておりますが、どのようにお受け止め頂いておりますやら、私にとりましてもはかり知れないものがございます。
ただ、お釈迦様や日蓮大聖人が、限り有る貴重なご生涯をかけて末法濁乱の世に住む我々凡夫に対してご遺訓なされた事をお伝え致しているだけなのでありまして、いささかも私の考えなど及ばないのは周知のとおりであります。
昔、中国の聖人孔子が、「述べて作らず、信じて古を好む」と云われたように、孔子自身も人間の道についていろいろと述べてきたが、それは、自分の考えではなく、昔から宇宙の大生命によって万物がこの世に生かされている疑いを入れない絶対の真理の境地を説明しただけで、別に新しい事を述べている訳ではなく、只そうした昔のことが好きなだけであるとの言葉がまことに印象深く受け止めさせて頂いております。
法華経の世界とは、まさに三世(過去・現在・未来)にわたって存在するすべての在り方を包含する教えであります。
我々が日々に生かされているのも、この宇宙の大生命のはたらきなのであり、この原理をお釈迦様は法華経に託され、日蓮大聖人はより具体的に形として具現されたのが、お題目を中心とする大曼荼羅ご本尊と云えます。
このご本尊の意味を深く信ずるところに自ずから凡夫の身が佛の身と一体になるのですからこれ程の有り難さは申すに及びません

祈りと信仰(四十五)
2023.10.01

祈りと信仰(四十五)
残暑厳しい今日この頃ですが如何お過ごしでしょうか。
お見舞申し上げます。
一切衆生と共に涼味一徳大自然に感謝しつつ、皆さまの更なるご自愛をお祈り申し上げます。
ようやく盛夏の中、今年のお盆も過ぎて、何時しか軒下に鳴く虫の音もどことなく寂しく秋の気配を感じられるようになりました。
さて、今年も檀信徒の皆さまの各家々を訪れ、お盆のお棚経を上げさせて戴きました。
私事ながら、法華経の修行も未熟で化導も及ばないこの身故に、お棚経ともなれば何時ものことですが、正座の連続で途中で足が痛くなったり、暑さのため頭がもうろうとしてきたり体調が思わしくないという始末を繰り返しておりますが、年に一度の各家のご先祖様へのご法味言上との一念で足を運ばして戴いております。
でも不思議にお仏壇の前に座ってお経を読み始めますと、経力のご加護と申しますか、自然にお腹の中から一々文々の真正の佛が私の口中を通って精霊の御魂に届いて居るものと思わしめておりますと、身に連れ添う煩悩も皆共に佛界に転じて下さいます。
また各家の中には、ご一緒に経文やお題目を唱えて下さった方もあって、佛様共々有り難いの一心を頂戴致し、これも菩薩行の一分かと存じます。
所で、物の豊かな現世において、神仏に触れて本当に有り難いと思う尊い体験や何時でも佛様のように振る舞う人に出会う時がお有りでしょうか。
人生においてこのこと無くして何事か有りましょうか。
お題目を疑うこと無く、どのような苦難も忍んで得た有り難い尊い体験を重ねることによって、自ずから素晴らしい人(佛様)との出会いが生ずるのであります。

祈りと信仰(四十四)
2023.09.24

祈りと信仰(四十四)
最近の朝は気温が下がり肌寒い。
朝勤中、曙光が本堂の入口正面に差し、そのかすかな温かみが、丁度私の背後の障子を通して感じられる此の頃です。
今朝もその障子の外で頻りに刷るような音が読経中の耳に入ってきた。
言うまでもなく、御寶前での勤行は清浄で曇りない心を頂けるから有り難い。
それが済むと境内の墓地や当山守護の諸天善神に法味を言上する慣わしなのでお題目を唱えながらその障子を開けたその瞬間まぶしい陽光に包まれ、眼前には沢山のトンボが障子にはりついたり翔んだりしていた。
もっと驚いたのは、足元の回廊と階段に沢山のトンボが正面を向いて不動の姿で留まっているのです。
このような神秘的な光景は始めて体験することで、まるで無数の佛様と倶に浄土に住まわして頂いているようで何か目頭が熱くなってきた。
形こそ違え生きとし生きる命が法界の中で感応し会う喜びを味わい、同時に、まさに、「お陰様で生かされている」事への感謝と、内なる佛心が自然にはたらきかける信仰の有り難さを感じさせられたのです。
その一方、人間界だけでいくら覚りを開こうと思っていても、また成佛しようと思っても難しいことを知らされた。
法華経の世界観は、この地球どころか宇宙のあらゆるものが根源なる命(ご本佛)から生成して、その分身としてそれぞれの価値をもって存在していると説いている。
従って、トンボに限らず草木やあらゆる命も私たち凡夫と同様に助け合って成佛あらしめるようにこの世に存在していると観なければ浄土も存在しないことになる。
実は、今問題の切実な環境浄化の原点もここにあると思うが、
「心浄ければ土も浄し」とはこの事と思わしめている。