風の色

祈りと信仰(二十六)
2023.05.14

祈りと信仰(二十六)
「父帰る喜ぶ顔は犬ばかり」
「お疲れさま給料ほどの妻の声」
二句とも最近の月刊雑誌『川柳に見る“疲労大国”日本のオトーサンたち』の一部転載であるが、他人ごとではない。
普段から身につまされているオトーサン(?)に限らず日本人の大半が疲労している様子を改めて考えさせられた。
世の中、忙しさのあまり自分を見失いかけ、加えてその悲哀の渦の中でもがいている様な気がしてならない。
仕事一途に生きてきたサラリーマンK氏の場合である。
彼が定年後に、狭い会社付き合いとは趣の異なったいわゆる近隣の世間的な対人関係に入っていけず、急にフケ込んでしまい、内心行く末、孤独で寂しい人生に不安を感じてきたという。
そのK氏いわく「不安になって初めて自分と向き合っている人間の姿が見えた」と。
今時、静かに自分を見つめる時と場所があるだろうか。さしずめ家庭のトイレがロイヤルボックスと真面目にいう人がいる。
さて、千葉刑務所に教誨師(刑務所で囚人に説教する方)として勤めている井上日宏師(東京都江東区玉泉寺住職)の体験談に耳を傾けよう。
死刑囚と決まった人からの一通の手紙に「悪いことをして入獄して死刑囚に決まってから自分を内面的に見て・・・はじめて人間というものを自覚した時、いつでも死ねるようになった云々」
所詮、はじめから人間なのに、何故かそれと気がつくのに遅すぎる。