風の色
- 祈りと信仰(三十六)
- 2023.07.23
祈りと信仰(三十六)
「願くは一切の道俗、一時の世事を止めて、永劫の善苗を植えよ。」
(守護国家論)
なぜ、私どもにとって、信心が必要なのでしょうか。
自分の身体健全とか無病息災とか心願成就とか、いろいろとお願いすることが山々でありましょう。
しかし、一方では、世俗(現実の生活)なくしては、生きていけないのも当然なのです。
そこで、日蓮大聖人は、ご自身の今生の祈りを後にして、法華経の祈り(お題目の修行)に代えることによって、この世の人々を安穏に導かんとする教えをたてられたのです。
私どもの行(お題目修行)も不滅のご本佛に預かる(心の田に善い苗を植える)ことによってこそ、その行願も生きてくるものであります。
功徳を頂くことが先ではなく、行を先にしてこそ願いも叶うものであります。
- 祈りと信仰(三十五)
- 2023.07.16
祈りと信仰(三十五)
『自分という名をもった人間』
私的な事で恐縮ですが、かって、久慈高校で二年の学級担任の時ですが、最初からまとまりに欠けるところがありまして、どうしたら協力していけるかの問題を、およそ一週間に及び徹底して議論が尽きるまで延々と話合いをさせた経験があります。
生徒は、日を追ってイライラした状態が増す一方、何とかまともな意見が大勢を占めるまでと根気強く耐えましたが、思うようには至りませんでした。
冒頭の言葉は、その後、教室の後の壁に書いて、以後の学校生活のテーマにと呼び掛けたものです。
前述の教室風景は、まさに此の現実社会の縮図に外なりません。
みんな様々な憶測と価値基準で利害を衝突させているのです。
法華経は、この利己社会のために釈尊が遺しおかれたみ教えです。
他に自分の欲を求めることがなく、先ず心から自分より先に他に与え、かつそれによって他の苦を少しでも楽にしてあげる慈悲心を大切に教えております。
これを「抜苦与楽」と申しております。
この抜苦与楽を行なっているときが真の自己に出会っている時と云えます。
「自分という名を持った人間」から「抜苦与楽」の自己への橋渡しが法華経と思って戴ければ幸いです
- 祈りと信仰(三十四)
- 2023.07.09
祈りと信仰(三十四)
私たち凡夫にとって、この世において一体よりよい生き方とは何か、また人生の目的とは何でしょうか。
誰しも、自分の望みどおりに暮らせたら何のわずらうことがありませんし、これ程の浄土はありません。
しかしながら三毒五欲に染まった我々が日々に悩まずして暮らせるはずも無いのです。
それだけに私どもの心に映るこの世は無常ではかなく、よけいに苦しみが多いと感ずるのも極めて当然なことと申せましょう。
そこで、このような末世にどう生きたらよいかを釈尊は法華経に託しておかれました。
それは、菩薩行であり、たやすく言えば世のため人のために尽くす振る舞いのことですが、この一言で言い切ってしまうほど容易なことではありません。
普段から私どもは、互いに何かの役割をもってこの世に尽くしつつ生かされております。
このこと自体が菩薩行に外なりませんが、正直言って真に心から生き甲斐を感じるまでに至っていないのは何故でしょうか。
それはきっと、信仰の姿と人生の生き方がちぐはぐなところから生じているような気がしてなりませんが。
そこで、このような問題について考える場合、いつの時代に於ても、どの様な社会にあっても、すべての人間が苦しみ、悩み、そして自分自身ばかりでなく多くの人々が同じような状態でいることを示唆して、その解脱(解き離れる・彼岸・涅槃の境地・〈ニルバーナ〉)の道を説かれたものが、仏教であり、釈尊の説かれた教えでもあります。
いつも出発点がここにあることを銘記しておくべきものと思います。どの経典もこのことに対して様々な角度から説いたものと言えます。
しかし、経典も最後の方になって法華経や涅槃経のように究極の教えを説いて人間の真実の姿とは何かを説いておかれました。
法華経の法師品第十章に『衆生を愍むが故に、此の人間に生ずるなり云々』と。
本来、私どもは、この世を希望して生れたものであることが説かれております。
真実の自己とは、実にこの辺に見え隠れているようです。
つまり、真の自己を知ることによって彼岸の道が開かれてくるものといえます
《あなたの人生において必ず出会わなければならない人とは、自分です。》
- 祈りと信仰(三十三)
- 2023.07.02
祈りと信仰(三十三)
普段の私の日課は、朝の勤行、そして出勤、学校での仕事を済ませ、帰宅すると、山のようにお寺の仕事が待ち受けています。
そんな中で、心休まる日といえば束の間、時に色々なストレスから来る葛藤や我が侭な心が起こる事が多いです。
でもどんなにあがいても、結句、此の道は三世(過去・現在・未来)に渡って佛様から頂いたものと思うようになってきました。
それは、正しいお題目の功徳によって頂いた本佛の心であると信じています。
辛い悲しいことがあってもそれを素直に頂く、これによって過去世での罪を滅する事が出来たら有り難く思うことがようやく身に滲みて参りました。
まして、お題目の信仰を疑ったり、そしったりしたら今まで積んだ功徳は一瞬にして消え失せるとの経文をもってしきりに恥ずべし恥ずべしと日蓮聖人は、門弟や信者の方にお示しになっております。
この世で法華経信仰を持つということは容易な事ではありませんが、末法濁世に生きる我々の真に心安らむ境地(釈尊のお命を生きる浄土)を欲するなら一心に祈るお題目修行しかないのです
- 祈りと信仰(三十二)
- 2023.06.25
『佛法の中に法華経ばかりこそ正 直の御 経にておわしませ。』
日蓮聖人御遺文(法門可被申様之事)
ところで、この中の「正直」という言葉は、現在、私どもが耳にするのとは少々意味合いが違っています。
例えば、当時のお話ですが、子供が飢えのために苦しんでいる母のためにやむを得ず隣の畑から瓜を盗んでしまったことで村中が騒ぎだしたのです。
でもその父親は、自分の子供が犯した罪とは知りながら代官所へ訴えようとしませんでした。
今の世では当然ながらこのような父親の態度は決して「正直」とは申せません。
むしろ、罪を隠匿した為に逆に苦しみ、やるせない気持を持ち続けることになるのです。
しかし、子を思う親の心は「正直」いって、善悪の分別を超えた慈悲深さを感じさせられてなりません。
子の姿が我々衆生であり、そのみ親が釈尊なのです。
常にこの佛様のご慈悲に照らされている私どもがこれを信ずる(唱題する)意外に佛様に会えようがないのです。
- 祈りと信仰(三十一)
- 2023.06.18
祈りと信仰(三十一)
『世をあわれみ人を助けよ、これわが罪を消し行く末の悪をのがるる道なり』
日蓮大聖人御遺文【開目抄より】最近の事ですが「成る程なぁ」と感心させられた事を申し述べてみたいと思います。
私の友人ですが、ご夫婦を柱にあるお店を経営していまして、時々お邪魔する機会があります。
もとより人情深く世話好きでいつも笑みの絶えない友人はこれといった趣味や遊びもしない仕事一筋の人生、奥さんはといえば、ご主人をよく助ける一方、忙しい最中にもかかわらず大変な読書家でしかもその内容が佛教に関する本というのでありますから敬服の念しきりであります。
さて、私が関心したというのは、この奥さんはいつも佛の世界に生かされているような気がしたのです。
何故かと申しますと、底抜けの明るさであります。きっとこの明るさが家族はもとより、お客さんなど日々に接する人々全体にどれほどの救いを与えているかと思えたからです。
そして、ご主人である友人の笑顔は倍にして奥さんからも頂いているのだと思い、この仲睦まじいご夫婦のお人柄に心がいつも洗われるのです。
この明るさの秘訣は宗教的な本を読んでその知識から得たものというより、もともとその奥さんに備わっていた佛性(救済・成佛の根源)がその本によって呼び覚まされたものではないかと思いました。
つまり本を読むことによって何かをつかみそれによって自己を高めたいという姿勢が心の奥に眠っていた人間本来の魂を呼び起こしたのでありましょう。
この明るさは、まさに自らを燈火として生きる佛様の姿そのものだからであります。
- 祈りと信仰(三十)
- 2023.06.11
祈りと信仰(三十)
濁水心なけれども、月を得て自 から清めり。
草木雨を得て、豈覚あ って花咲くならんや。
『妙法蓮華経』の五字は経文に非らず、その義に非らず、唯一部の意耳、初心の行者其の心を知らざれども、而も之を行ずるに、自然に意に当たるなり。
日蓮聖人御遺文(四信五品 鈔)
於 身延山 聖寿五十六歳妙法の五字には、あらゆるすべてのものを活かす不思議なはたらきが含まれているので、理屈抜きで信じて南無妙法蓮華経と唱えさえすれば、求めなくとも自然にご本佛様からそのこころを頂いていることになる。
不思議なご守護を頂いて有り難いと感じるその心こそがご本佛様に照らされている姿なのである。
ちょうど水が火を消したり、火はまた物を焼いたりするのも、元より水や火に心あってのことではないように、素直に唱えればよい。
- 祈りと信仰(二十九)
- 2023.06.04
祈りと信仰(二十九)
ひと昔前になるが、ある大手のデパートに勤務したM子さんの体験談。
彼女の仕事は、エスカレーターの前に立って一日中頭を深々と押し下げ、かつ丁寧に、「いらっしゃいませ」「いらっしゃいませ」・・・を繰り返すだけである。
所が、一ヶ月後、突然欠勤してしまった。
理由は、自分が馬鹿らしくなったとのこと。
しかし、心配した先輩の一言で復帰出来た。
その一言とは「自分も神様だが、来客も神様と思い、常に謙虚な気持でやってみなさい」という。
今では、ベテランの研修係、新採用者を集めては人と接する大切な原点を「謙虚な心」をモットーに活躍中である。
虚心坦懐という言葉がある。
辞書には愛憎の念がなく公平な態度とあるがまさに謙虚な心(あらゆるものに対する愛)に通じていると思える。
日蓮聖人の歌と伝えられるものに
「皆人を渡しはてんとせしほどにわが身はもとの真間の継橋」
宮沢賢治の心も、あの「雨ニモマケズ」の詩の心でいうならば、自然と社会と人間に対する謙虚さに満ちている。
そこには、自分のためにがない。
ためにする行為には利己が先立つようでならない。
何をおいても自分の立場や利益を優先する人の多い世の中、肝に銘じたいものである。
前述の歌は、生れながらに備わっている他を先に渡すはたらきである佛性に開目することを今の私たちに呼び掛けてるようでならない。
- 祈りと信仰(二十八)
- 2023.05.28
祈りと信仰(二十八)
今朝も、そう遠くない車道から元気で威勢のよい声が聞こえてきた。
スタンドにガソリンを給油する客に向かっての挨拶である。
また、普段でも、給油を終えて帰っていく車(人間?)に帽子をとり、数秒間腰を深々と曲げている姿を見ることがある。
しかし、彼等が果たしてこの大切なサービスの心を心としてどれだけ日常生活に活かしているだろうかと思う時がある。
ひと昔前になるが、ある大手のデパートに勤務したM子さんの体験談。
彼女の仕事は、エスカレーターの前に立って一日中頭を深々と押し下げ、かつ丁寧に、「いらっしゃいませ」「いらっしゃいませ」々々々・・・を繰り返すだけである。
所が、一ヶ月後、突然欠勤してしまった。
理由は、自分が馬鹿らしくなったとのこと。
しかし、心配した先輩の一言で復帰出来た。
その一言とは「自分も神様だが、来客も神様と思い、常に謙虚な気持でやってみなさい」という。
今では、ベテランの教育係として、人と接する大切な原点を「謙虚な心」をモットーに活躍中である。
虚心坦懐という言葉がある。
辞書には愛憎の念がなく公平な態度とあるが
まさに謙虚な心に通じている。
更に、その心のはからいをたずねれば、尊厳なる人間の魂(佛性)に向かって呼び掛けているものではないかと思う。
とくと日蓮聖人の御詠と伝えられる次の歌をかみしめたいものである。
「皆人を渡しはてんとせしほどに、わが身はもとの真間の継橋」
- 祈りと信仰(二十七)
- 2023.05.21
祈りと信仰(二十七)
佛門に入った方ならご存じの感応道交という言葉がある。
簡単にいえば、佛天と心が通いあう境地である。心が通うとは私たちの凡心が佛天に摂取され佛天の御心がそのまま凡心に伝わることかも知れない。
佛心に生きるとはこれを抜きにしてはあり得ない。
何もしないでいて感応道交するはずもないが、誰でも大慈悲心をもって生きたいと望んでいる。
所で、佛教のいわゆる四苦八苦の中で怨憎会苦といってこの世では誰しも憎しみ会う人と一緒に生きねばならない苦しみを意味している。
どんなに豊かで便利な世の中になっても人間である限りそこからは逃れられない。
そこからの解脱の扉は、己を変える「鍵」でなければ開いてくれない。
「己を変える」とは、なまやさしいものではない。
しかし、佛天と心が通じることによって可能としたのが佛教である。
具体的には成佛の姿。
だいぶ前からだが、毎朝の勤行が終わり、更衣前にかなり大きな声で「おはようございます」と合掌して挨拶をしている。
人間に限らず私が生かして頂いているあらゆるものを対象に行う感謝の祈りに近いものである。
さて、私の祈りといえば、小さい時から唱えてきた「南無妙法蓮華経」である。
声にだして唱えるのは朝夕の勤行ということになるが、心の中や咽喉のあたりでも唱えているから眠っていない限り四六時中祈っている事になる。
共に凡心を素直に佛天に呼び掛けている所作に過ぎないが、結句、己を変える(己に帰る)よすがと信じてやまない。