風の色
- 鏡開き
- 2022.01.11
本日、1月11日、正月飾りをはずしました
当山では、毎年、1月11日に正月飾りをはずしています
正月飾りの期間を「松の内」と言います
「松の内」は、歳神さまが滞在する期間です
各家にお出で頂く目印として松飾りや注連縄を飾ります
歳神さまにお供えするのが、鏡餅なのです
歳神様は、お正月に各家々にきて、その家の1年を御守護してくれる神様といわれています
- 風の色(二十)
- 2022.01.09
風の色(二十)
前の月で自己錬磨などと偉そうに書いてしまったが、それは、風雪に耐えて尚見事に花を咲かせる老梅のいのちにならいたい気持からであった。
宮本武蔵の「五輪書」(水の巻)に、『千日の稽古を鍛とし、萬日の稽古を練とす』とある。
まして錬磨となれば、突き詰めて知れば知るほど遠い別世界のお話ということになる。
しかし、老梅が修行して美しい花を咲かせているとは誰も信じない。
ただ、自然の摂理に従っているまでのことであるが、その姿を己が理想とすれば錬磨(不断の努力)なくしてありえまいと思うからである。
さて、武蔵に限らず幕末の吉田松陰にしても、自己錬磨に生涯をかけることができたのは、常に、天(宇宙の摂理=神佛=汝)を拠り所にしていたからといえる。
多くの高僧や先哲の人生観に共通するものは、天の命ずるものという認識であったと思う。
佛教も凡夫が住むこの世は、佛天(本佛)が与えた修行の場、まさに娑婆〈忍土〉そのものと説く。
日常生活が鍛練の道場なのだから、一生楽して生きようとしてもそうはいかないようにできている。………
ここが凡夫の生きる原点で尊い。
一休宗純の歌に、
「年ごとに 咲くや吉野の山桜 根を割りて見よ そのありかを」
我々凡人の目には見えない美しい花のありか、そのありかをどんなに捜しても見当らない。
所詮、そのありかは「美しいと観ずる己が心中にあり」としたもの。
拙文「風の色」も二十数回になるがその中で絶えず見えざる音色に耳を傾けてきたつもりである。
それも佛天との係りの中でこそ磨かせて頂いたといえる。
- 冬期の墓地事情
- 2022.01.04
本日は真冬日、そして昨年末より、雪が断続的に降っております
その影響で墓地内は深い雪に覆われています
お墓参りの際は長靴が必須です
お寺の雪かき道具もお貸しできますので気軽に声をかけて下さいね
- 謹賀新年
- 2022.01.02
新年明けましておめでとうございます
本年も、多くの人々が小さな喜び重ねて、大きな喜びに包まれる社会になることを祈念致します。
一僧侶として、佛様の手となり足となり、日々精進させて頂くと共に、皆様の家内安全・身体健全をお祈り申し上げます
本年も何率宜しくお願い申し上げます。
合掌※画像は令和4年1月2日の当山です