風の色

新年の準備
2021.12.31


昨日、30日は、新年への準備でした
松飾り、お供え、幣束、注連縄、全て整えました
三寳荒神様の「色紙幣束」は妙法寺先代から受け継がれた大切な幣束です
他の寺院でも見たことの無く、貴重な芸術作品とも言えます

水子供養 / 堕胎 : 岩手県奥州市
2021.12.29

【過去事例】水子供養
ずっと体と心が重かったです
どうしたら分からなく、インターネットで探してきました
過去を清算したい、手を合わせたら楽になれますか?
その後、本人の希望で、半年間お寺で水子供養続けました
現在は年に一度、水子観音様へお参りに来ております
20代女性からの依頼でした
水子供養 / 堕胎 : 岩手県奥州市

祈祷 / 眼病祈祷 : 岩手県奥州市
2021.12.28

【過去事例】祈祷依頼
白内障で初めての手術で不安を抱いていました
手術成功の祈祷をしました
80代男性からの依頼でした
祈祷 / 眼病祈祷 : 岩手県奥州市

人生相談 / 農家継承相談 : 岩手県奥州市
2021.12.27

【過去事例】人生相談依頼
膝と腰がもう限界です
子供達は農家の仕事を手伝ってくれません
先祖からの土地を守りたいのですが、跡継ぎは誰かしてくれるでしょうか・・・
70代女性からの依頼でした
人生相談 / 農家継承相談 : 岩手県奥州市

風の色(十九)
2021.12.26

風の色(十九)
今の時代、人間の命もものの値打ちもマスコミがつくっている。
また、マスコミに乗せられた価値はシャボン玉のように軽くそしてあまりにも消えやすい。
誰もが本当の値打ちを観ようとする心を失ってきたのだろうか。
法華経に『顛倒(てんどう)の衆生』といっているが、まさに本物の値打ちが観えなくなった我々凡夫をさしているものである。
境内に一本しかない老梅がある。
今年は殊のほか色や形も鮮やかに咲いている。
あまり見事な咲きぶりに妙に心がときめいた。
しかし、美しく花を咲かせている幹や枝の表皮は決してみずみずしくない。
むしろ枯れているのである。
しかし、枯れていてもなお咲く花の神秘さを誰が知ろうか。
その命の根元に心を寄せた時にはじめて老梅に親しみを感じ心を通わせることができたのである。
しばし眺めているうちに、この老梅に登って遊んだ頃が目に浮かんだ。
よく師父に、拳骨が飛んできそうな剣幕で叱られたことがある。
私には、どうして梅の木に登っていけないのかわからなかった。
後年になって知り得たことだが日蓮宗では古くから祈祷の儀式に梅の枝を使う慣わしがあり、禍を転じて福となすなど一種の魔除けのような木として尊んだもので、師父の激怒も、またむべなるかなと。
そのような縁を共にしたこの老梅から、今になって命そのものの値打ちを、また外には枯れたと見せても内にははかり知れない命を常に磨いていることも教えられた。
自己錬磨なくては一寸先も観えない。
よく丹精を込めるというが、それは自らの心を値打ちが出るまで耕す(磨く)ことではないかと思う。

冬の晴れ間
2021.12.24


先日「ブログ見てるよ」と遠方の檀家さんより電話を頂きました
たまにはお寺の風景もみたいとリクエストがありました
12月24日、冬晴れ、当山のスナップです

令和3年 星祭・幣束祭
2021.12.22


12月22日冬至、13時より法要です
1年で夜が一番長い冬至の日、星が一番長く光り続ける日です
「星に願いを」
1年の厄をはらい、福を授かりましょう

明日は星祭・幣束祭です
2021.12.21


毎年、冬至に行われる本年最後の法要となります
今年の冬至は12月22日です
星祭りとは、一年ごとに巡ってくる運命を左右する星を供養し、個人の一年間の幸福を祈り、災いを除く法要です
幣束祭とは、新年を迎えるために新しい幣束に魂入れをし、家内安全を祈る法要です

■星祭りの起源
中国で、旅の高僧が貧しい村人達から精一杯のもてなしをしていただいた。
その心遣いに感動した僧が、村が豊かになるようにひとつの秘法を授けた。
冬至の日の夜明けに、空に太陽と月と星(三光)が同時に登っている一瞬を狙って報恩の祈りを捧げれば、望むものが手に入るというものだった。
村人達は高僧の言いつけ通りに祭りを実行し、富を得てその後永く栄えたと言われています
冬至に行う星祭りのルーツです

風の色(十八)
2021.12.19

風の色(十八)
先日、何気無しに月刊誌の広告欄に目が止まった。
ある佛教系大学の広告である。
『ある経験を、どのように受けとめるか。宗教というのは、受けとめ方の勉強だと思います。』とあった。
これを見て懐かしい想い出が蘇ってきた。
約三十年前の春も今頃だったと思う。
最初の赴任校である久慈高校に勤務して二年目、不摂生が原因で軽い胃潰瘍におかされた。
とは申せ何も咽喉を通らず下宿で一人静かに病臥している間かなり心身共に辛い日々が続いた。
しかし、唯一の慰めは枕元のラジオであった。
ある日の朝、七時半過ぎにNHK第二放送の古典講座「死にいたる病」(キェルケゴール著)を聴いて深い感動のあまり涙で枕を濡らした時の経験である。
その時率直に感じたのは、キリスト教とか佛教という観念的な見方にとらわれていた自分自身を恥じたし、そのようなものを遥かに越えた人間存在の根本にかかわる「汝との出会い」が確実に存在するということだった。
佛法では、縁起の法といって何事も因と縁によって成り立つことを説いている。
病気を因とすればラジオ放送は縁となり、「汝との出会い」に結びついていく。
縁も大切だが、就中、因の尊さを身に沁て感じた。
誰しも病気を苦とするのが普通、しかし、これをご本佛の思し召しと悟ればこれ程の幸せはない。
病気が因となり尊い「汝」の存在に出会う事ができたとすれば、まさに病気大菩薩様である。
それも病気に限らず、むしろ逆境の時こそ試されるように思う。
何時も己が心に向かって、貴方は《どのように受けとめますか?》と

幣束作成
2021.12.16


12月は新年を迎える準備に追われます
先代より引き継いだ「幣束」をコツコツ作り続けています

さて、この「幣束」について、よく質問を受けます
新年に飾る幣束って何ですか?

皆さんは、神社で白い紙飾りを見たことがありませんか
それを「幣束」(へいそく)と言います
では、どうして神社ではなく、お寺で幣束があるのか?
それは、日蓮宗の開祖である日連聖人が神道の秘伝を学び、幣束を伝えたと言われています
その伝承を守り、本宗では幣束を作成します

「幣束」は神仏への捧げものであり、神仏そのものです
神仏が集まる幣束は、結界(聖域)となります
年末に新しい結界を張り、神仏を招き佳き年を迎えましょう

■幣束の起源
古代においては、神仏に献上する最上の捧げものは絹布で、これを上位の神仏へ捧げ、中位の神仏には麻布、下位の神仏には木綿を捧げたようです。
いずれも素手で献上するには畏れ多いとして青竹に挟んで献上しました。
それを「フトミテクラ」と呼んだがそれがやがて儀式化され、木綿(ゆう・樹皮を細かく裂いたもの)や絹糸の太巻きを青竹に挟むようになり、さらに後には、和紙が使われるようになったと考えられます。
■日蓮宗の幣束伝承
日蓮宗加行所(大荒行堂)にて、幣束の切り方を、口伝により相伝されます
「幣束相承」と言われ、門外不出の秘法なのです