風の色
- 久遠のみち(九)
- 2022.10.02
久遠のみち(九)
かの有名なマザーテレサは、インドのカルカッタで同心のシスターと共に、キリスト教による貧しい人々の救済活動に全霊を傾けた事は周知の事である。
誰も身よりもなく、一人寂しく路傍で死に逝く人々に向かって、彼女は、「あなたは望まれてこの世に生まれてきた」と語りかけその人々の死を看取ってあげる毎日だった。
ある日、飢餓で病弱になり今にも死にそうになってベットに横たわっている子供連れの母親にお弁当を届けるため見舞いに行った。そのお弁当を受け取った母親は、指でそれを半等分し「隣の家にも同じく飢えている親子がいるのであとの半分をあげて欲しい」と彼女に告げたという。
この時、彼女はその母親に「神」を見たという。
これぞ人間が体験しうる至高の境地、感無量の徳光が輝き増したものと想像している。
本来、キリスト教の思想からすれば人間の中に「神」が存在することはない。
むしろ、この考え方は、大乗佛教の思想に近い。彼女が実際に病弱の母親に見たものは「神」であるが、しかし、事実それを「佛」と読み替えて見たとしても我々には何ら違和感がないのも不思議である。
「神=佛」(病弱な母親)に出会えた彼女は救済活動を通じて現実に「神=佛」が存在すると確信し、また、自身、人をして「神=佛」は人類の救済活動を進めるものであることに一層の祈り(信)を深めたと思われる。
ここで言う「神=佛」は、もともと人間の心の中に備わっているものとするのが大乗佛教の中心思想である。
ところで、彼女と病弱の母親の行いは極めて法華経的であり、しかも菩薩の生き方そのものといえまいか。
法華経の方便品に、
「唯(ただ)佛と佛と乃(いま)し能(よ)く諸法(しょほう)の実相(じっそう)を究尽(くじん)したまえり」とある。
彼女とその母親の関係がそのまま法華経の思想に通じてくる。
- 久遠のみち(八)
- 2022.09.25
久遠のみち(八)
前回、久遠のみちの原点が見える云々……。と記したが、私自身、ものを考える際に基本的には原点を踏まえているつもりである。
しかし、実際にはそれを等閑にしている場合が非常に多い。
そこで、もう一度、確認の為に数回前の「久遠のみち」で触れたー佛とは一体なんぞやーに立ち戻って考えて見たい。
佛とは何か。この単純にして判るようで判らない問いである。
一般的には、死人と直結したり、一方では摩訶不思議な存在として、崇高且つ最尊の超人格をさしている。
しかし、釈尊の覚り全体に照らしてみたら両方とも的はずれといえよう。
佛について予め誤解のないようにお断りしておきたい。
一般的に佛というと人格的なものを賦与する傾向は否めない事実である。
しかし、佛とは何かを理解するためには、佛界というように最初から個人格を超えた広がりの中で捉えるのが分かり易いと思う。
更に、この問いに解答を出すことが、久遠のみちをもっと具体的に明らかにしてくれるからである。
宮沢賢治が法華経や日蓮大聖人の御教えに感得して得た境地、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」は、人間凡夫の理想の生き方が佛を生きることであり、それが人間が求めて止まない究極の幸福と談じたものである。
ここで言う「世界全体が幸福に」が佛界であり、人類共通の理想をさしている。
従って、佛界(全体の幸福)は個々人が所有できるものではないということを前提にして「デクノボー精神」という菩薩行で生き通すことに徹したものである。
個人的には佛には成れないが菩薩として佛を生きる事の幸福を一心に「南無妙法蓮華経」に結んだと言える。
佛(界)の真相は目に見えないが、例外なく総ての生きとし生けるものの中に住み給うことだけは事実である
- 久遠のみち(七)
- 2022.09.18
久遠のみち(七)
残暑お見舞い申し上げます。
なんと前回から久しく二年余りご無沙汰してしまった。
この間、多くの方より「ひそかに楽しみにしていたのに」「そんなに忙しいのですか?」等々、
伝道ハガキに寄せる方々の真面目な思いを背に受けながら「何とかしなければ」と、反省しつつ今夏を迎えた。
お檀家さんが百軒足らずなのに何故そんなに忙しいのかと尋ねられるが、お寺と聞けば葬式と法事だけと考えている人にとってはかなり理解しがたいと思う。
確かに退職後、霊断師会の本部役職に就いてからというもの会の仕事や全国各地への出向が多く自坊を空ける事がしばしばであった。
しかし、この伝道ハガキの空白期は私にとっては全く無益なものではなく寧ろ「久遠のみち」に繋がるものを温めていたといってよい。
近頃、天地自然が我々人間社会に対し手を緩めることなく襲いかかってる。
その人間社会も、いとも簡単に人命を奪ったり、親子の絆も切れて悲しい出来事がおこり、果てはエセ宗教に翻弄されて自己を失っていく若者たち、大量消費時代における食品管理の落とし穴に泣く惨事等々、我々はどの道逃れることが出来ない時代に生きている。
実のところ、こうした現象は質の違いこそすれ太古の昔からあったものだ。
今や、科学技術文明不滅論の社会にドップリと漬かってしまった我々は、一時の便利や安楽に満足するあまり、事の真相を覚知することに麻痺してしまったと言える。
本当の事を言うと、誰の心(遺伝情報)にも往古より自然の恵みを承けて共存してきた事を忘れていない筈である。
この辺から久遠のみちの原点が見えてくるような気がする
- 久遠のみち(六)
- 2022.09.11
久遠のみち(六)
長く続いているこの伝道はがきの中で随所に法華経、法華経と何度も出てくるが、一体、法華経とはどんな教えなのか?
また法華経を人類救済の経典とされた日蓮聖人との関係について簡要に言って貰いたいとの質問を頂いている。
しかし、なかなか要にしてお答えできないのが残念であるが、強いて言えば次のような説明になると思う。
法華経の特色として、一つ目は、誰でもが佛に成ることができると言うことであり、二つ目は、誰でもが永遠に滅することがない命である本佛の種を宿していると言うことではないかと思っている。
この両者は、表裏一体をなしているもので、万人の心の中の奥深いところにある本佛の願い(釈尊と同じ心根で生きよとの呼びかけ)そのものであり、人類愛と言ってよい。
このような教えを現実に引き映して、誰もが着の身着のままで成佛できる実践宗教をお立てになったのが宗祖日蓮聖人である。
宗祖の誓願は、お題目を口・意・身で唱えると言う祈り(易行)を通じて、我々凡夫大衆が佛の位にまで高められることを不屈の信仰によって実証されたものである。
所で、どんな素晴らしい教えでも、現実の人間生活に活かされなければ薬の効能書きと同じことになる。
要するに、観念だけでは凡夫大衆の救いにはならない。
だから現に救われたという安心立命が実感された時に初めてその教えが現実のものになっていくのである。
宗祖は、ここの急所をお題目の神秘に結ばれたのである。
宗祖の教えの総てをご妙判と称しているが、それは法華経を生涯通じて経文どおりに体得された結果お示しになった御書で、それ故そのご生涯を抜きにしてはご拝読できないものと思っている。
- 久遠のみち(五)
- 2022.09.04
久遠のみち(五)
数日前の晴れ渡った夜であった。
本堂の斜め向かいにひっそり佇む老梅の前を通り過ぎようとしたが、月光に映された老梅の影に何故か足が止まった。
見上げると薄白い花びらがやや光を放っているようだった。
何となく梅の咲く悦びが伝わってくるように感じた。
芭蕉の句に、「春もややけしきととのふ月と梅」とあるが、古来より月と梅は抒情を誘う相性のいい風景なのかもしれない。
ところが、四月初旬なのに、突然の寒風と雪が襲ってきて辺り一面雪化粧と変じた。
漸く開いた花びらにもこんもりと積もっている。
朝勤のあと本堂から見ると凍てつくような寒さに震えていないかと心配で痛々しく思い幾度と無くお題目を唱えて合掌した。
しかしながら、この梅も何も文句も不平も言わずに逞しく花を咲かせ、やがて木の実をつけ種子を遺して種族保存の使命を果たしていくのである。
実に不思議である。
思わず老梅の魂に温かい声援を贈りたい一心でお題目を唱えたのである。
「ありがとう」の感謝の一念で!
普段からこのような当たり前のように思っている様々な現象を見過ごしていることにハッと気ずかされるのである。
沢山の不思議さを発見する度に自らの感性が磨かれると固く信じている。
我々人間は、常に孤独なのではなく日常生活の中で、ありとあらゆるものと一緒に生かされていることをもっと身近に感じてもよいと思う。
久遠の生命体(妙法蓮華経の五字)とは、個々の存在とその使命をを全うさせる大慈悲心である。
たまたま人間だけが五官を通して認識できるもので、人間以外にも久遠の生命体があるということは、自然界と人間界が融和している何よりの証拠である。
- 久遠のみち(四)
- 2022.08.28
久遠のみち(四)
モロトモニアハレトヲボセミ佛ヨキミヨリホカニシル人モナシ
この御歌は、鎌倉時代に華厳宗を復興させた―夢みる聖者―として有名な明恵上人・高弁のものである。
私が二十歳過ぎの学生時代のこと、時々京都や奈良へ行く機会に恵まれ、たまたま洛西にある高山寺に詣でた折りに明恵上人の少年時代の伝記を聞かされた。
空を飛ぶ鳥を見ては両親の生まれ変わりではないかと思ったり、道に寝そべっている小犬をまたいでしまったので、あわてて戻って合掌した事など、余りにも純真な生き方に言葉に表せないほど感動したことがある。
自己の修行を佛の修行に擬し、両者一如にして徹底すればするほどいよいよ「私は釈尊の愛子である」との自覚が深まり、それを総て自らの宗教体験の起点とする生き方である。
今なおこの明恵上人の清貧で高潔な佛道修行の姿勢というか存在するあらゆるものに対する研ぎ澄まされた豊かな感性に惹かれている。
ところで、私自身磨くべき感性が乏しいのは止む得ないが、一般に宗教・芸術しかり、感性の鋭い人には目に見えないものが見えるという。
本佛(宇宙真理の根源)の真相も同じ事である。
釈尊はこの真相そのものを指して「妙法蓮華経」の五字であり久遠の生命体ともお示しになった。
しかしこれは誰の目にも見えるものではない。
日蓮大聖人は、この「妙法蓮華経」の五字に南無(帰依)する事、つまり南無妙法蓮華経と唱えることによってのみ普段には見えない真相が現実生活の上に具体的な体験(御守護)となって顕れること間違いなしと断言されている。
今もおのが心中の佛に向かい「ミ佛ヨキミヨリホカニシル人モナシ」との感性を育てるべく昼夜精進の日々である。
- 久遠のみち(三)
- 2022.08.07
久遠のみち(三)
前回の、そもそも「佛(ほとけ)とは一体何なのか?」について考えて見たい。
因みに、有名な兼好法師の「徒然草」(十四世紀の作品)の最後の第二四三段は、作者が八歳の頃、佛(ほとけ)とはいかなるものかを父に問いつめた日を思い起こして書き記したものである。
原文を要訳すると次のようである。
『八つの時、父に「佛とはどのようなものですか」と聞いたら父は「佛とは人間が成ったもの」と。
では「人間はどうやって佛に成ったのですか」と聞いたら、父は「佛の教えによって成った」と。
では「それを教えてくれた佛を何ものが教えたのですか」と。
「それも前の佛の教えによって成った」と。
「では、その教えを最初に教えた佛とはどのような佛なのですか」と言ったら、父は「空から降ったものやら、大地より湧いたものやら」と言って笑った。
父は「ついに問いつめられて答えられなくなった」と。人々に語って面白がった』
前々からこの段について考えさせられものがあった。
既に佛道修行を経験済みの作者ではあるが、何故佛についての素朴な疑問を書き綴ったのかである。
作者は、観念的な佛は幾らでも描けるが、自己の現実生活の中で真に納得のいく佛の在り方を問い続けていたのではないかと、私なりに考えている。
所で、今の大人が子供から同じことを聞かれたらどうだろうかと考えて見た。
多分、似たり寄ったりか、もしくは形になっている佛像やお釈迦さんを指して答えるのではないかと思う。
でも「佛とは一体なんですか」というそのものの真相を聞かれたらやはり困惑してしまいそうである。
現実生活の中で、真にこれが「佛なんだと」思える体験が無ければ答えようがないと思う。
佛の実体は、自分とは別個のものではなく自分の心の中に住みついて時々表に出たり引っ込んだりしているのではなかろうか。
- 久遠のみち(二)
- 2022.07.31
久遠のみち(二)
本来佛教は、現実に生きて悩み苦しむ我々衆生の心の闇(人生苦)を解放する事(救いの道)をねらいとして釈尊によって説き明かされたものである。
ところが、残念ながら今日の佛教は、その本意とは逆に抹香臭いとか、単に祖先を弔う時の教えであるかのように認識されている。
要するに現実の生活とは無縁如きに思われているのである。
では一体その原因は何処にあるのかと問い糺せば、前回にも述べたように「葬式佛教でこと足れり」の寺院やそこに居座っている僧侶が一向に佛教の本意を省みないところにある。
又、一般の衆生も大部分は、それを義(よし)とまではしなくとも「僧侶はその仕事(?)でこと足れり」を半ば認めているのであるから、尚のこと佛教は、苔や埃で覆われた磨かざる金剛石のように現実に何も役に立たないものになっているのである。
一方、新興宗教の狙いは、そうした葬式佛教の矛盾を取り込みつつ、現実生活で悩乱する無知無防備の人心の隙間に入り込んで、現世利益の信心を奨めたから瞬く間に老若男女こぞって入信し、膨大な教団を作ってしまった。
既成の佛教教団は伝統的な檀家制度で何とか命脈を保ち、新興宗教は、正当な教義を欠いても教祖のカリスマ性によって人心をかどわかして教団の維持を計っているが、どちらも佛教の本意からはずれた自家撞着の誹りを免れない。
もし今後ともこのような現象が続くのであれば、永遠にこの世に真の浄土は顕現しないことになるが、誰一人これを望むものはいない筈である。
従って、佛教の本意をしっかりと見極めて現実に活かさない限り、尊い人間としてこの世に生を享けた意味がなく、宝(金剛石)の持ち腐れになってしまう。
では「佛教の本意とは何か?」―そもそも「佛(ほとけ)とは一体何なのか?」
次回以降からの中心となるテーマである。
- 久遠のみち(一)
- 2022.07.24
久遠のみち(一)
「久遠のみち」なる久遠について、日蓮大聖人ははたらかさず、つくろわず、もとのまま、と仰っておられる。
しかし、こう説明されても即座にピンとこない。
いったい何が働いていないのか、何を繕わないのか、何がもとの侭なのか、その‘何’の実体がわからない。
私の理解の中では、これを佛の真実の相(すがた)と考えている。
佛というと世間一般では、死人をさしていう。
だから人間は誰でも死ねば必ず佛にされてしまう。
ところで、佛教とは、当たり前のことだが佛の教えのことをさしている。
今から二千数百年前、釈尊が八十年の生涯をとおして覚られた内容を多くの弟子たちや民衆に向かって説法された教えのすべてである。
かりに、死んだ人を佛とすれば釈尊は、すべてあの世に逝った佛(いわゆる死人)たちの為に説いたことになる。
いわば佛を死人と見れば葬式=佛教ということになり、どこかおかしいことになる・・・
佛の本願(ねがい)は、誰もが佛の意(こころ)を持って佛のように生きて理想とする浄土をこの現実に顕して欲しいのである。
その担い手は、現実に生きている人間以外誰がその佛国土を築きあげることができるだろうか。
法華経を生きとおした宮沢賢治の描いた理想も同じであった。
日蓮大聖人は、釈尊の教えの真意(法華経)に迫って得た佛とは、現実に生きている我々衆生そのものであることを断言された。
別な表現でいえば我々は佛の実物ということになる。
まず世間一般でいう佛の見方を変えることによって、はじめて久遠の中身がおぼろげながら見えてくるような気がする。