風の色

祈りと信仰(六)
2022.12.18

祈りと信仰(六)
少々固い表現になりまして恐縮ですが、法華経の世界観で申しますと、本来、この宇宙の森羅万象すべては、神(ご本佛)の恵である大慈大悲の御心が備わっていないものはないとする考えであります。
大慈悲の御心とはすべてを生かすはたらきと申せましょう。
ですから、この世に存在するもの、また、この世に起こり起こるところのあらゆる現象も、調和のとれた至福をもたらすものであります。
私どもの生活の中で身近な例で申しますと、それは心もほどほどに満ち、物にもとかく不自由なく暮らせる日々を送れる、そのことがご本佛のはたらきでありまして、そこに有り難いと感じることを感応と申しますが、このことを理解していくためにもう少し先の方へ進んで参ります。
その有り難いと感じる自身の胸中にご本佛様がお棲みになっているとしたらどうでしょう。
自分自身が感じたと思っていたものは、実は、ご本佛様が自身と一緒に感得されていた事になります。
目には見えない姿でありますが、間違い無くお棲みになっている証拠は真に有り難いと感じるからであります。
ここに、日蓮大聖人が一切経の中から法華経を選びとられた理由がありまして、そのご法門が『凡佛一如の歓喜をあらわす』という聖句であります。
このことから、私どもの日常の信仰や信心と呼ばれる、その意(こころ)に自身の振る舞いが、常にご本佛のはたらきであり、ご本佛との感応なしでは起こりえないことを肝に銘じて精進したいものと思います

祈りと信仰(五)
2022.12.11

祈りと信仰(五)
明治の文豪夏目漱石は、「私の個人主義」の中でイギリスでの体験から次のようなことを述べております。
『この国は何よりも人間の自由を大切にする所で、日本とは比較にならない。では何をしても自由かというと、そうでなく小さな子供から大人に至るまで常に相手の自由をも尊ぶ精神があって社会が秩序正しく成り立っている。』と。云々。
勿論、明治時代の日本人の社会通念からすれば異質な国の風情に映ったのも当然といえます。
また、日本人として彼がこのような異文化から受けた衝撃は一方では歴史の姿以上にもっと根源的な違いを見抜いていたと思われます。
所で、この漱石の文明比較を単に現在の私たち日本の姿(無秩序な自由の氾濫)にスライドさせて見ると、一体日本人は明治時代から何歩進んだのかと疑いたくなります。
まさに今の日本は、ひたすら留まるところの知らない私利私欲の特急列車に乗っているようなもので、ブレーキがあっても故障状態といえましょう。
当時のイギリスの社会に根ざしていたもの、それは信仰だったに相違ありません。
敬虔な神への祈りを大切にする人々にとっては、必要以上の豊さを求めないのが普通でありますし、物と引き換えに大切な心を持つことに人間としての価値や誇りを見出した証拠です。
この辺に人間社会の基本的な秩序があるように思います。
では我々日本人が何故このような秩序を育まなかったのでしょうか。
これは大変大きな問題といえます。

祈りと信仰(四)
2022.12.04

祈りと信仰(四)
さて、いささか御法門の一端を申し述べておりますが、どのようにお受け止め頂いておりますやら、私にとりましてもはかり知れないものがございます。
ただ、お釈迦様や日蓮大聖人が、限り有る貴重なご生涯をかけて末法濁乱の世に住む我々凡夫に対してご遺訓なされた事をお伝え致しているだけなのでありまして、いささかも私の考えなど及ばないのは周知のとおりであります。
昔、中国の聖人孔子が「述べて作らず、信じて古(いにしえ)を好む」と云われたように、孔子自身も人間の道についていろいろと述べてきたが、それは、自分の考えではなく、昔から宇宙の大生命によって万物がこの世に生かされている疑いを入れない絶対の真理の境地を説明しただけで、別に新しい事を述べている訳ではなく、只そうした昔のことが好きなだけであるとの言葉がまことに印象深く受け止めさせて頂いております
法華経の世界とは、まさに三世(過去・現在・未来)にわたって存在するすべての在り方を包含する教えであります。
我々が日々に生かされているのも、この宇宙の大生命のはたらきなのであり、この原理をお釈迦様は法華経に託され、日蓮大聖人はより具体的に形として具現されたのが、お題目を中心とする大曼荼羅ご本尊と云えます。
このご本尊の意味を深く信ずるところに自ずから凡夫の身が佛の身と一体になるのですからこれ程の有り難さは申すに及びません

祈りと信仰(三)
2022.11.27

祈りと信仰(三)
信仰生活の基本的な態度と申しますのは、結局は、日々にご本佛によって生かされていることへの感謝の気持に尽きます。
佛教ばかりでなく、世界的宗教と言われるキリスト教にしても、イスラム教にしても、所詮はこの心で生きることを教えていると思います。
森羅万象この世に存在する総てのものはご本佛の分身でありますから、仲良く共存共栄せんとしています。人間だけが生きる世界でないことは確実です。
日蓮大聖人もよく太陽や月に向かって自我偈を読まれたり、身延山でのご生活の折も、風やそれに揺れる草木にも、流れる川の水の音にまでも、常に妙法を唱えておられます。
そこには、只々有り難いの一心と受け止めさせていただいております。
さて、私ども凡夫は、毎日のように不平不満の中で生きているのが正直なところです。
ですから益々苦しみと迷いが交叉して絡み合い一向に安楽な心に到らないのも当然であります。
所が、本当の信心を行えば自然にご本佛の御心がいただけるのですが、中々その信心とやらが実行出来ないのです。そこで、その信心の一歩手前で行いたいものの中で大切なのが懺悔する気持であります。
これを飛ばして只々願い事ばかりの信心は形は似ていてもご本佛には、中味は偽物と映ることになるのであります。
まず、懺悔の心をもって神佛に向かう事が初心と心得たいものです。
私たちがてらうことなく素直になって深い罪を悔いる、その心を本気になって養う態度をもってこそ、自ずから感謝への心につながる佛道と言うものではないかと思いますが、如何でしょうか

祈りと信仰(二)
2022.11.20

祈りと信仰(二)
法華経が説く教えから見て、この二つの関係について申しますと一念からの祈りがあってこそ生活に恵まれそのような生活によって更に祈りが深まっていくものでありますから、いわば相互に一体となって佛様の御心を受け取ることが出来るようになるものです。
だから、特別なはからいがなくとも自然に手足が動くように尊い菩薩行の生活をいただけるのです。
もともとこのような状態が続くことが私たちが理想とする世界であり、同時に何時でも何処でも常に法を説いている久遠の世界から佛様の大慈悲心がはたらいているため、結果的には一念信解のお題目によって私たちの祈りが叶うということになるのです。
信仰によってでなければ得られない現証(祈りが現実のものとなる)によって祈りの意味が体全体で感じることになるのです。
さて、日蓮聖人は信心が強い人ほど諸天からの守護も厚いとお示しになっております。
ところが、それを自分の都合の良いほうに解釈して強欲なまでに欲得ばかりの祈りをしたがるのが我々凡夫の哀しいところです。
しかし、祈っている本人が一番そのことを知っているので、「こんなことではいけないなぁ」という反省の気持が心の奥底から聞こえてくる。
それが佛様の御心なのですからありがたいと思わなければなりません。
その反省の声に心から耳を傾けて正しい祈りに戻らなければ、日常生活も気持の奥にひそんでいる強欲な心がわざわいしてしまいます。
言いかえて申すならば、祈りとは、ご本佛からのはたらきであり、生活とは、それに応えるはたらきとなり、お題目修行の肝心であり、成佛の直道ともいえます。

祈りと信仰(一)
2022.11.13

祈りと信仰(一)
この世において祈りのない宗教はありません。
では祈りとは何かと申しますと少し硬い表現になりますが、敬虔なる神(ご本佛)の大慈悲心を一心にこの身に映しだそうとする行為(帰依)ということです。
このはたらきを法華経では、一念信解の妙用と言っております。
お題目は、まさに最高の祈りであります。
その最高の祈りを真実の祈りと思って唱える事が大切なのです。
誰でもがよく経験することですが、忘れものをすることがあります。
しかも、自分にとってかけがえのない大切なもの(物心両面)です。
それを見つけ出した時の喜びは何とも言いようのない心の満足が涌いてまいります。
これは本来自分の心を支えていたり慰めてくれたもので、自分と一緒にあったものだからなのです。
私たちの心には元々からやさしい慈しみの心をもって生まれてきている証拠でもありましょう。
こうした心を佛性とも言いますが、これを覆い隠して見えなくすると物事の判断を誤り結果は、苦しみが重なり迷うことになるのも道理です。
日蓮聖人は、この道理を信じて疑わない人は必ず佛の智恵が備わり、祈りの叶わないことはないと導いて居られます。
ですから、お題目の祈りそのものの法華経は、言葉では言えず、心で考えることの出来ない不思議で有り難い御経であると示されております。
従って、元から備わっている佛性を一念で呼び現わすこと(お題目の祈り)によって本佛の心を己に映しだして(自己の魂に染めること)日常生活に生かしてこそ真の信仰の生活と言えます。

久遠のみち(十三)
2022.11.06

久遠のみち(十三)
東日本大震災から早三ヶ月が過ぎた。
あまりにも無惨でならない。
悲しくて悔しくて言葉にならない。
今ではことごとく想定外の出来事。
誰もがこれほどまでの惨事を予期していなかった。
過去の体現者すらも自然の猛威を忘れかけていたというが、特と帰幽された諸清霊位のご冥福をお祈り申し上げ奉る。
大自然界の鼓動は、この宇宙世界での摂理に基づくもので、我々人間の知覚を遙かに超えて及ばない。
ましてこの地球上に住んでいる我々は、この摂理を宿命として受け容れるしかないのも現実である。
一方、温暖化の問題など地球環境の変異を経験しながらも、その根底に人類の飽くなき快適さを求める心(思い=欲望)が横たわっていることにあまりにも無頓着過ぎないだろうか。
地球を取り巻く自然環境に少なからず影響を及ぼしてきたことと直結してはいまいか。
ここに、自然界の心と我々の心が通じ合う因果関係があるようでならない。
もし本当に心が通じてるなら、人類も自然界もどこかに存在する「心の共有ボックス」に繋がっていて互いに無意識のうちに交信しているのかも知れない。
心も目に映らず耳のない朝顔に向かって語りかけながら水を遣れば、やがて見事に応えて咲くのもむべなるかと思う

久遠のみち(十二)
2022.10.30

久遠のみち(十二)
お盆のお棚経に出向いた時に交わした対話の一部を紹介します。
「長い間人間ばかり見てきたので、定年退職後は主に庭に生い茂る草木などに目を向けている」
・何故、人間から植物等自然との対話へ向かわれたのですか。 
「人間と違って素直に自然環境に順応しながら精一杯花を咲かせたり木の実を結ぶ在りように何故か心が奪われるから」
・それは、ある意味で今の時代閉塞や人間の在りようを変える為には、人間同士の対話からはあまり期待が出来ないとも言えますか。
「そうとも言い切れないが、同じ大自然に生かされている生命でありながら、かくも違うものかと考えさせられる」
・人間や動物も元々は大自然の産物とすれば、そこには根源的には共通の生命意思が在って当然とも言えますが……。
「その辺の所を佛教、なかんずく法華経との接点といえば何ですか」
・森羅万象悉く佛性ありとすることからすれば、もとより皆同じ生命を生き続けていると言えます。
あらゆる生命に共通する意思の源(久遠)は所詮、慈悲心(愛)ですから。
「宗教の原点みたいなものでしょうか………」
・今やすっかり見失いがちなそれを人間同士の対話からは得られないものを身近にある草木と向かい合うことによって智慧を磨かれておりますこと、実に尊いことと存じます。
「この辺が判ると、人間にとって、もとより孤独という事はあり得ない事になりますね」
極めて当たり前の事ですが何かを感じ取って頂けたら幸いです。

久遠のみち(十一)
2022.10.16

久遠のみち(十一)
お陰様で、当山の庫裡の建設工事が当初の予定より大幅に延びたものの完成するまでの間、何一つ魔障なく円成させて頂いたのは、御本佛様の大慈大悲の御守護とお導きの賜と深く感謝している。
今は、周辺の環境整備を残しながらも徐々に什器備品を整えつつ諸行事等に使わして頂いている。
そもそもこの庫裡建設の事業は、二十年前より発願し続けてきたもので、様々に紆余曲折を経ながら機の熟するのを待つ思いであった。
時恰も、宗祖日蓮大聖人立教開宗七五〇年を迎えるに当たり、念願の事業を当山の慶讃記念事業として是非とも実現したいと思い、平成八年に有縁の檀信徒の皆様にご理解とご協力を求めたもである。
思えばこの事業を遂行するについて、多くの皆様にとって、百軒足らずの檀家で、しかもこの不景気な時期に、敢えてこの事業を始める事に大きな抵抗と疑問を持たれたのも無理からぬ事と拝察していた。
然し、私はこの事業の発願した時から、必ずや円成することを信じて止まなかった。
それは法華経を信じ御題目を唱える人々が依処とする道場が建たない事はないとの固い信からである。
一方、浄財を寄進されるおひとりおひとりが、本来から地涌の菩薩としてこの世に生を享け、またとないこのような浄業に出会い、法華経実践の道場を建てる為に、それぞれ異なった姿や思いを持ったとしても必ずや佛業を修められる尊い菩薩集団であることへの信でもあった。
日蓮大聖人の「法華経の行者の祈りの叶わぬことはあるべからず」との御教示を素直に信じ、皆様と共にその「信の一字」の祈りによってその心願が御本佛様の御心に届いたからに他ならない。
この至心の祈りによってこの世に浄土を開いてくれる事が何より「久遠のみち」につながるものと思っている。

久遠のみち(十)
2022.10.09

久遠のみち(十)  
前回、マザーテレサの心の中に潜む神の認識は極めて法華経的だと云ったのは、ひたすら菩薩行(同じ佛性を持つ人間が他を救済する事によって同時に己の佛性をも磨かれていく実践的生活)に勇往邁進していたからである。
さて、彼女にとって「そうせずはにおれない」言動は、いったいどこから生まれたのだろうか。
たとえ路傍で死に逝く人々がいても、彼女は、シスターと共に朝夕の神への祈りの時間だけは欠かすことがなかったという。
その何より大切な祈りの中から育まれた自然にして最も崇高な働きかけでなくて何だろうと、思っている。
神の黙示なのかも知れない。彼女の意思の奥に潜む神秘な世界(久遠本佛)が現実に顕れてくる(救済活動)ためには、どんな高等な哲学も及ばない「信」による祈り以外にないことを示唆している。
その神秘世界の意思を神とも佛とも云っても過言ではない。
云うならば、人間の行い得る最尊の境地を我々に教えている。
日蓮大聖人は、この真理を八万法蔵に及ぶ経典の中から法華経(正しくは妙法蓮華経)こそが神秘世界の意思を説く根本経典であることを認識され、佛性開覚の祈りとして南無妙法蓮華経と唱える至心唱題を説いたのである。
世の中には、この祈りそのものの行為をいとも簡単に呪いの術などと下等な人間がやるものと誤って認識している人が多い。
かつて、宮沢賢治がその真理を深く覚って帰郷し、花巻市内を団扇太鼓を打ちながら御題目を唱えて行脚した時、孤高な修行者とは見ず、気が狂ったとまで評された。
俗世の偏見が知らず知らずに一人歩きしてきたのが今日の社会である。
真剣に耳を傾ける人々が少なくなった。