風の色
- 祈りと信仰(十六)
- 2023.03.05
- 祈りと信仰(十六) 
 ある長者が地位も財産も失い途方にくれて如来を尋ねた。
 そこで如来は、「では、あなたが今感じていることを述べてみなさい」というと、
 ある長者云うには、
 一つには、「一向に生き甲斐がなくなったこと」
 二つには、「苦労ばかりで行く末を案じていること」
 三つには、「世の中は窮屈で思うどおりにいかないこと」
 四つには、「他人の悪口や妬みで一杯であること」
 それを聞いた如来のおっしゃるには、
 「生き甲斐は他人のために尽くせばおのずから得られるもの(利他行)」
 「苦労も滅罪の為(世の中の闇を照らす一燈)と思って耐え忍べよ」
 「自主自由を勝手我が侭と思っている限り不平が絶えない」
 「我が強いほど嫌われるもの、孤独にならないために謙虚で笑顔で語れ」
 最後に、これ程の浄土に生かされていることこそ、有り難いと思うことが大切であることを説いた。
 今、己が何に一番関心や目標を抱いているかで人間の言動が定まってくる。
 例えば、お金儲けだけを考えれば心までが餓鬼道に堕ち、名誉欲に駆られれば孤独にさいなまれ、逆に、骨身を惜しまず人や世間に尽くせば菩堤心を得て心豊かに現世を浄土と観る事が出来るのである。
 この世を娑婆世界と観るか常寂光土と観るかは、各々の心の中にあると云える。
- 祈りと信仰(十五)
- 2023.02.26
- 祈りと信仰(十五) 
 誰でもが、一生の生活で共通して欲している理想といえば、一つには「死にたくない、長く生きたい」二つには「楽をして苦労はしたくない」三つには「自由で何にも束縛されたくない」四つには「平和で争いのない国土に住みたい」というまさに浄土(菩薩集団の国土)そのものであるが、それは「求めて得ざる苦」即ち不可能に近いものである。
 一方、我が身の心を覗いてみると「一向に生き甲斐が見つからない」し、「安楽どころか苦労ばかりで行く末を案じ」また「世の中は窮屈で思うどおりにいかない」ばかりか「態度でごまかしても本音は他人の悪口や妬みや争いごとで一杯」というまさに穢土そのものなのである。
 しかし、常に理想の境地を心に抱いている事実には変わりないが、理想と現実の差が余りにも甚だしい。
 そこを埋めるために菩薩行の実践がある。
 釈尊のご真意である佛教というものは、一般に凡夫が修行等して佛になる道を説いたというが、むしろ佛の姿から真の人間(菩薩)たらしめる道を説いたと云うべきである。
- 祈りと信仰(十四)
- 2023.02.19
- 祈りと信仰(十四) 
 最近の朝は気温が下がり肌寒い。
 朝勤中、曙光が本堂の入口正面に差し、そのかすかな温かみが、丁度私の背後の障子を通して感じられる此の頃です。
 今朝もその障子の外で頻りに刷るような音が読経中の耳に入ってきた。
 言うまでもなく、御寶前での勤行は清浄で曇りない心を頂けるから有り難い。
 それが済むと境内の墓地や当山守護の諸天善神に法味を言上する慣わしなのでお題目を唱えながらその障子を開けたその瞬間まぶしい陽光に包まれ、眼前には沢山のトンボが障子にはりついたり翔んだりしていた。
 もっと驚いたのは、足元の回廊と階段に沢山のトンボが正面を向いて不動の姿で留まっているのです。
 このような神秘的な光景は始めて体験することで、まるで無数の佛様と倶に浄土に住まわして頂いているようで何か目頭が熱くなってきた。
 形こそ違え生きとし生きる命が法界の中で感応し会う喜びを味わい、同時に、まさに、「お陰様で生かされている」事への感謝と、内なる佛心が自然にはたらきかける信仰の有り難さを感じさせられたのです。
 その一方、人間界だけでいくら覚りを開こうと思っていても、また成佛しようと思っても難しいことを知らされた。
 法華経の世界観は、この地球どころか宇宙のあらゆるものが根源なる命(ご本佛)から生成して、その分身としてそれぞれの価値をもって存在していると説いている。
 従って、トンボに限らず草木やあらゆる命も私たち凡夫と同様に助け合って成佛あらしめるようにこの世に存在していると観なければ浄土も存在しないことになる。
 実は、今問題の切実な環境浄化の原点もここにあると思うが、
 「心浄ければ土も浄し」とはこの事と思わしめている
- 祈りと信仰(十三)
- 2023.02.12
- 祈りと信仰(十三) 
 師父の遷化以来、夢幻の如く過ぎ去った今、ようやく心も平常に物静かにあの炎天の影を追って葬送の有様を思い浮かべている。
 死期に間に会わなかったあの時、何故か必死に呼び掛けようとしても咽喉の奥から声が出てこない。
 普段の熱を推し測るようにそっと額に手をあてた時も未だ温もりがあったし、師父は生きいるように思えたが、翌日の闍維(僧の荼毘)が済んで遺骨を抱いた時の温もりによって師父との本当のお別れであると覚った。
 同時に人間として尊厳なる死と生の意味を体験させて戴いた。
 私の人生四十九年が間師父との関係の総てがこの一瞬の定めとなっていたことを。
 これ以上言葉に尽くせないが、強いて表現すれば、共に法華経信仰という絆で結ばれていたればこそ体験出来たと言えようか。
 そこで、死そのものの尊厳さについて感じたことは、決して他界する者の生前の偉大さとは関係が無く、むしろ、死にゆく者と存命する者との宗教的な在り方に関わっていることではないかと思った。
 常々より師父の臨終の際は、法華経の経文を読誦して幽冥の世界へ送りたいと願っていたが、ほんの一瞬の間のことだったので、それも叶わず何か心が晴れないまま暫く悔いが残っている。
 しかし、今は何の煩いも無くすべて任せきった師父のあの顔猊が心から離れず、その幻影を思い浮かべては徐々に慰められのも有り難く不思議に思っている
- 祈りと信仰(十二)
- 2023.02.05
- 祈りと信仰(十二) 
 ことわざに、「人の一寸は見ゆれど、我が一尺は見えず」とある。
 日頃から、我が心の内を見ないでいると、つい他人の欠点だけが目につきやすいものである。
 その心の中を覗いてみると、他人どころでないことに気がつく。
 そこで、次の文である。
 「しばしば他面(他人の顔)を見るに或時は喜び、或時は瞋(いか)り、或時は平らかに、或時は貪(むさぼ)り現じ、或時は痴(おろか)を現じ、或時は諂曲(てんごく<こびへつらい、ひねくれている意>)なり、瞋るは地獄、貪るは餓鬼、痴は畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平かなるは人也。云々」
 日蓮聖人の御遺文『観心本尊鈔』より
 この文は、一般に六道輪廻と云って我々凡夫の心の有様を示されたものである。
 人間は、一生の間この繰返しで終わったらどこにも救いがない。
 どれを取っても苦の種だからである。
 かといって、誰でも進んで悪を好む人はいないばかりか、出来ることなら心根は優しく、争いもなく皆等しく幸せを望んで生きようとしている。
 一体何故だろうか。
 それは、もともと佛様のような慈愛の心が同居しているからに他ならない。
 それがたまたま隠れて見えないだけなのである。
 つまり同居していながら中々出会えないでいる。
 或る人は、形は人間なれど心は動物のような存在を真に人間の心たらしめるのが人生の目的と云ったが、当を得たものと云えよう。
 実は、本願と云って心に住む同居人(ご本佛様)はあなたと出会うことを願っている
- 祈りと信仰(十一)
- 2023.01.29
- 祈りと信仰(十一) 
 かつて、日本の総理大臣が国政の舵取りを誤らないために、日頃から精神を鍛え平常心を身につけるため鎌倉まで出掛けて坐禅を組んだことは、新聞や雑誌などで既に知られている。
 今風で云うと実に「カッコイイ」のである。
 また、会社の幹部研修や一般に知識人といわれている人々の中にも、好んで坐禅が取り入れられている。
 何か不思議な魅力があるようだ。確かに、静寂のままに自己との徹底した葛藤を通じて真の佛心を会得するに違いないが、むしろ、独房で従容として壁に向かっている死刑囚の姿の方が遥かに真実味があり嘘が無い。
 要するに短期間で坐禅を修練して人間の精神活動が佛心と同様な状態であるかのような錯覚を起こしているだけである。
 こういう現象を、ある禅の師家が「平常心」というより「横着心」と一刀両断している。
 所で、我々は、他人事のようにこの「横着心」を笑っておれない。
 今の世の中、何でも面倒臭がる傾向にある。
 その場の窮地を免れるために出来るだけ楽する方途を探すように出来ている。
 金銭一つで事足りる傾向が氾濫しているのが好い例である。
 それが昂じて更に手抜きである。
 楽することと手抜きは異曲同工である。
 特に今は家庭(特に親子の関係)や教育に手抜きが波及しつつある。
 何はともあれ、これだけは歯止めしなければなるまい。
 「横着心」に付ける薬は無いが、せめて勧んで無心の菩薩行(世の為人の為に自分の身命を惜しまず尽くす行為)に精進するにこしたことはない。
 まして、信心に手抜きなどがあつたら元もこもない。
- 祈りと信仰(十)
- 2023.01.22
- 祈りと信仰(十) 
 今の世界情勢は激変の一途を辿っている。
 特にソ連のゴルバチョフ大統領がペレストロイカ(改革・世直しの意)を提唱してから早五年の歳月が流れようとしている。
 東欧諸国も西欧に目を向けはじめた。そこに共通する人々の心は自由で開かれた政治と豊かな社会への憧れを示している。
 さて、世界は、時々刻々飢餓で尊い命を失っていく国もあれば、わが国のように世界一の金持ち国もある。
 かつて二十数年前のこと、繁栄の絶頂にあったアメリカ合衆国の或る市民が、崩れゆく家庭の有様を見て、「すべてはお金が物語っている」と。漏らした言葉は、今の私たち日本人にとって他人ごととして済まされまい。
 金銭欲の裏では、家庭の崩壊、無軌道で自由な振る舞いの氾濫、陰湿な犯罪、教育の荒廃等々行く末を恐れぬものはない。
 実は、ソ連や東欧諸国も同様な問題に悩んでいる。とすれば、今や世界の人が心のペレストロイカを自己に問わなければならない時と思う。
 所で、釈尊やキリストやマホメットが今の世界をご覧になったらどのように言われるだろうか。
 どの聖人も口を揃えて「我々の時代と何一つ変わっていない」と言われるに違いない。
 そして「人類の歴史は時間と共に同じことを繰り返していたに過ぎない」と。
 或る著名な方が、この世の乱れは「宗教」が発展しないのが原因と言った。
 果たしてそうだろうか。
 もともと「宗教」なるものは発展するものでなくいつでもどこでも永遠に存在するものである。
 もともと汝自身が関わらないだけである。
 信仰は、まさにその存在を解く鍵と言える。
- 祈りと信仰(九)
- 2023.01.15
- 祈りと信仰(九) 
 「隠れての信あれば顕れての徳ある也」
 日蓮聖人ご遺文《上野殿御消息》
 よく「風雪の人生」等と云えば、世間の荒波に辛抱強く生き抜いた方の事である。
 淋しいかな、今の世の中では老樹と同じく過去のものとなった。
 そもそもこの表現自体、何かやるせない人生の悲しみを含んでいる。
 世間や自己に挫折しつつも、なお踏ん張って大志を貫こうとした足跡を半ば称揚したものであろう。
 一方、同じ人生を樹木の年輪に喩える時がある。
 自然の摂理は間違いなく月日を刻んでいく。
 人間の営みとは道理を異にして虚偽がない。
 所で、人間にも樹木の年輪に匹敵するものが沢山あるが、目に見えてこれだと断言するものはない。
 せいぜい体力の限界を感じたり、しわが増えたとか、腰が曲がってきたことくらいで、いたずらに年を数えても老樹のような風格は期待出来ない。
 老樹は無言で我々の心に「人生の心根」を教え、気持をなごませてくれる。
 真の隠徳とはこのようなものであろう。
 信仰のある人は、逆に風雪もある。
 心を磨く生き方だから覚悟の上である。
 真の信仰は自らを灯すのみならず他をも明るくするものだから、重ねれば信心の輪が刻まれていく。
 「心の年輪」といえる。
 これは、自行利他にわたる信仰年齢であって、高齢だから即隠徳とはならない。
 心は口ほどにものを云うが如く、佛のお姿でもある。
 とくと老樹の心を知るべきである。
- 祈りと信仰(八)
- 2023.01.08
- 祈りと信仰(八) 
 深く因果を信じて一実の道を信じ、佛は滅したまわずと知るべし。
 (法華経観普賢菩薩行法経)
 法華経の中に、法華経を広めることについて、釈尊の御在世ですらなかなか難しく、まして釈尊滅後の末法の濁乱であるこの世においては尚更のこと怨みや嫉みが多いので、そこを忍んで菩薩行を実践していけば、必ずその人の周りには如来の遣わした変化(へんげ)の人が現われて、守護してくださる。
 能く能くこのことを信じて法華経の実践に精進することを説いている。
 所で、この世に無垢のまま生を受けた筈の人間が、娑婆の汚泥に染まるにしたがい疑いの心を身につけてしまい、正直に信ずる心を失いかけてしまった。
 これも持って生まれた悲しい業といえる。
 しかしながら、有り難いことに元々から佛性を備えているが故に、私たちは必死に信ずるものを求めて生きている。
 所で、同じ信ずる心といっても様々である。
 自己流で作り上げた世界観を信じて生きる場合と、釈尊以来の法華経の世界観(大法)を信じて生きる場合がある。
 菩薩行の実践とは、妙法蓮華経の教えを一切疑わず心から信じて行うまさに求道の姿であり、後者の立場である。大法の中に生きるのと自己流の世界観に生きるのとでは天地の違いである。
 ご本佛様は貴方のすぐ傍に居られる。
 だからこそ、まず大法を素直に聞く心を育ててご本佛様の大慈悲心に生かされたい。
 一実の道のもつ意味は甚深である
- 祈りと信仰(七)
- 2022.12.25
- 祈りと信仰(七) 
 わたしの本当の心はどこにあるの
 胸のあたりかな
 それとも指令塔のある頭かな
 でも、どうしても見つからない
 佛様にあずけていたことを忘れてた
 佛様が、いつでも欲しいならあげるといっても
 うっかり受け取れない
 受け取ったらそれっきり佛様と話ができないから- 最近、特に心に関する本が売れているという。 
 どうやらお金のとりこになっている我々日本人への警鐘かも知れないと思ったが、しかし、それだけではなく、文明病ともいえる心因性の疾患に悩んでいる人が増えつつあることとも多いに関係がありそうだ。
 普段、何事もなく明るく健康そうに見える人でも、半分、否それ以上の人が忍び寄る“心の病”に気ずきつつある。
 それだから何とかしなければならない。
 まず、心の実体をじっくり見極めることではなかろうか。
 それは佛心を育てることにもつながる。
 さて、佛心をどのように読むか自由であるが、私は“佛になる心”と読んでいる。
 無条件で佛の教えに帰依する心構えであったらこれ程の安心はない。
 信仰は佛と自己とのかすがいである。
 もともと心というものは自分だけのものと思うから迷いが出てくる。
 佛といつも一緒と思えば楽である。
 お題目を一心に唱えていれば自然にわかることである

