風の色
- 祈りと信仰(四十六)
- 2023.10.08
祈りと信仰(四十六)
今月は何故か長雨にうんざりして、心もうっとうしい毎日でしたが、ようやく秋のお彼岸を迎え青空を仰ぎ見ることが出来ました。
一方何時しか夕暮れの雲間にトンボの群れかう風情に、急に秋の深まりを感じます。
さて、毎月いささか御法門の一端を申し述べておりますが、どのようにお受け止め頂いておりますやら、私にとりましてもはかり知れないものがございます。
ただ、お釈迦様や日蓮大聖人が、限り有る貴重なご生涯をかけて末法濁乱の世に住む我々凡夫に対してご遺訓なされた事をお伝え致しているだけなのでありまして、いささかも私の考えなど及ばないのは周知のとおりであります。
昔、中国の聖人孔子が、「述べて作らず、信じて古を好む」と云われたように、孔子自身も人間の道についていろいろと述べてきたが、それは、自分の考えではなく、昔から宇宙の大生命によって万物がこの世に生かされている疑いを入れない絶対の真理の境地を説明しただけで、別に新しい事を述べている訳ではなく、只そうした昔のことが好きなだけであるとの言葉がまことに印象深く受け止めさせて頂いております。
法華経の世界とは、まさに三世(過去・現在・未来)にわたって存在するすべての在り方を包含する教えであります。
我々が日々に生かされているのも、この宇宙の大生命のはたらきなのであり、この原理をお釈迦様は法華経に託され、日蓮大聖人はより具体的に形として具現されたのが、お題目を中心とする大曼荼羅ご本尊と云えます。
このご本尊の意味を深く信ずるところに自ずから凡夫の身が佛の身と一体になるのですからこれ程の有り難さは申すに及びません
- 祈りと信仰(四十五)
- 2023.10.01
祈りと信仰(四十五)
残暑厳しい今日この頃ですが如何お過ごしでしょうか。
お見舞申し上げます。
一切衆生と共に涼味一徳大自然に感謝しつつ、皆さまの更なるご自愛をお祈り申し上げます。
ようやく盛夏の中、今年のお盆も過ぎて、何時しか軒下に鳴く虫の音もどことなく寂しく秋の気配を感じられるようになりました。
さて、今年も檀信徒の皆さまの各家々を訪れ、お盆のお棚経を上げさせて戴きました。
私事ながら、法華経の修行も未熟で化導も及ばないこの身故に、お棚経ともなれば何時ものことですが、正座の連続で途中で足が痛くなったり、暑さのため頭がもうろうとしてきたり体調が思わしくないという始末を繰り返しておりますが、年に一度の各家のご先祖様へのご法味言上との一念で足を運ばして戴いております。
でも不思議にお仏壇の前に座ってお経を読み始めますと、経力のご加護と申しますか、自然にお腹の中から一々文々の真正の佛が私の口中を通って精霊の御魂に届いて居るものと思わしめておりますと、身に連れ添う煩悩も皆共に佛界に転じて下さいます。
また各家の中には、ご一緒に経文やお題目を唱えて下さった方もあって、佛様共々有り難いの一心を頂戴致し、これも菩薩行の一分かと存じます。
所で、物の豊かな現世において、神仏に触れて本当に有り難いと思う尊い体験や何時でも佛様のように振る舞う人に出会う時がお有りでしょうか。
人生においてこのこと無くして何事か有りましょうか。
お題目を疑うこと無く、どのような苦難も忍んで得た有り難い尊い体験を重ねることによって、自ずから素晴らしい人(佛様)との出会いが生ずるのであります。
- 祈りと信仰(四十四)
- 2023.09.24
祈りと信仰(四十四)
最近の朝は気温が下がり肌寒い。
朝勤中、曙光が本堂の入口正面に差し、そのかすかな温かみが、丁度私の背後の障子を通して感じられる此の頃です。
今朝もその障子の外で頻りに刷るような音が読経中の耳に入ってきた。
言うまでもなく、御寶前での勤行は清浄で曇りない心を頂けるから有り難い。
それが済むと境内の墓地や当山守護の諸天善神に法味を言上する慣わしなのでお題目を唱えながらその障子を開けたその瞬間まぶしい陽光に包まれ、眼前には沢山のトンボが障子にはりついたり翔んだりしていた。
もっと驚いたのは、足元の回廊と階段に沢山のトンボが正面を向いて不動の姿で留まっているのです。
このような神秘的な光景は始めて体験することで、まるで無数の佛様と倶に浄土に住まわして頂いているようで何か目頭が熱くなってきた。
形こそ違え生きとし生きる命が法界の中で感応し会う喜びを味わい、同時に、まさに、「お陰様で生かされている」事への感謝と、内なる佛心が自然にはたらきかける信仰の有り難さを感じさせられたのです。
その一方、人間界だけでいくら覚りを開こうと思っていても、また成佛しようと思っても難しいことを知らされた。
法華経の世界観は、この地球どころか宇宙のあらゆるものが根源なる命(ご本佛)から生成して、その分身としてそれぞれの価値をもって存在していると説いている。
従って、トンボに限らず草木やあらゆる命も私たち凡夫と同様に助け合って成佛あらしめるようにこの世に存在していると観なければ浄土も存在しないことになる。
実は、今問題の切実な環境浄化の原点もここにあると思うが、
「心浄ければ土も浄し」とはこの事と思わしめている。
- 祈りと信仰(四十三)
- 2023.09.17
祈りと信仰(四十三)
私たち凡夫にとって、この世において一体よりよい生き方とは何か、また人生の目的とは何でしょうか。
誰しも、自分の望みどおりに暮らせたら何のわずらうことがありませんし、これ程の浄土はありません。
しかしながら三毒五欲に染まった我々が日々に悩まずして暮らせるはずも無いのです。
それだけに私どもの心に映るこの世は無常ではかなく、よけいに苦しみが多いと感ずるのも極めて当然なことと申せましょう。
そこで、このような末世にどう生きたらよいかを釈尊は法華経に託しておかれました。
それは、菩薩行であり、たやすく言えば世のため人のために尽くす振る舞いのことですが、この一言で言い切ってしまうほど容易なことではありません。
普段から私どもは、互いに何かの役割をもってこの世に尽くしつつ生かされております。
このこと自体が菩薩行に外なりませんが、正直言って真に心から生き甲斐を感じるまでに至っていないのは何故でしょうか。
それはきっと、信仰の姿と人生の生き方がちぐはぐなところから生じているような気がしてなりませんが。
- 祈りと信仰(四十二)
- 2023.09.10
祈りと信仰(四十二)
普段の私の日課は、朝の勤行、そして出勤、学校での仕事を済ませ、帰宅すると、山のようにお寺の仕事が待ち受けています。
そんな中で、心休まる日といえば束の間、時に色々なストレスから来る葛藤や我が侭な心が起こる事が多いです。
でもどんなにあがいても、結句、此の道は三世(過去・現在・未来)に渡って佛様から頂いたものと思うようになってきました。
それは、正しいお題目の功徳によって頂いた本佛の心であると信じています。
辛い悲しいことがあってもそれを素直に頂く、これによって過去世での罪を滅する事が出来たら有り難く思うことがようやく身に滲みて参りました。
まして、お題目の信仰を疑ったり、そしったりしたら今まで積んだ功徳は一瞬にして消え失せるとの経文をもってしきりに恥ずべし恥ずべしと日蓮聖人は、門弟や信者の方にお示しになっております。
この世で法華経信仰を持つということは容易な事ではありませんが、末法濁世に生きる我々の真に心安らむ境地(釈尊のお命を生きる浄土)を欲するなら一心に祈るお題目修行しかないのです。
- 祈りと信仰(四十一)
- 2023.09.03
祈りと信仰(四十一)
『聴聞する時は燃え立つばかりと思えども、遠ざかりぬれば捨つる心あり。』
(上野殿御返事)
ある方からこんな事をうかがいました。
Aさんは、毎朝、欠かさずお佛壇に佛飯をあげ、線香を供えて一生懸命になってご先祖様のため、商売繁盛、家内安全等とお経やお題目をあげており、私どもにはそうは真似のできない立派な信仰生活をなさっていると聞いております。
所が、胴に落ちないことがありまして、Aさんのような方が、どうしてひと一倍欲張りでさらには他人を平気で傷つけるような振る舞いをするのでしょうか。
日蓮聖人は、「佛様というのは、人の振る舞いである」とお説きになっておりますが、果たして、真実の信仰生活とは何でしょうか。と言うものでした
そこで、右の日蓮聖人のお言葉であります。
一見信仰のように見えることが、実は習慣的儀礼のようになってしまい、お寺に参って法話を聴聞するわけでもなく、たまに聴聞したところで日常の生活とは無縁であり、お題目信仰の真の意味が自分の人生の生き方とかみあっていないところから生ずるものなのです。
真のお題目信仰なら菩薩行として世のため他人のために尽くさずにおれない筈なのですが。
如何でしょうか。
よそごととして聞けないものと感じました。
- 祈りと信仰(四十)
- 2023.08.27
祈りと信仰(四十)
「それ佛道に入る根本は信をもて本とす。」
(法華題目抄)
佛教とは、佛道とは一体どの様なことを言ったのでしょうか。
普通は、佛の教えとか佛の道とかの意味になりますが、果たしてそうでしょうか。
少し考えてみたいものです。
それは、確かにお釈迦様の尊い教えには違いありません。
しかし、特に、私どもが多く経験することですが、ふとした事でいらいら状態になることです。
思えば、いつも自分の思うどおりにならない不満から起こっているのです。
こんな時にお経を聞いたり佛教書を読んだりしても一向に解消致しません。
何故かと申せば、自身佛に成ることを忘れているからなのです。
日蓮聖人は、この娑婆国土で佛に成ることが何よりも尊い宝である事を見つけ出されたのです。
更に佛に成る道(佛道)は、観念的な知識や教えではなく信心によって開かれていくと説いています。
それが(佛に成る種)お題目なのです。
- 祈りと信仰(三十九)
- 2023.08.13
祈りと信仰(三十九)
「御宮仕えを法華経と思し召せ。一切世間治生産業は皆実相と相違背せずとはこれなり」
(檀越某御返事)
私どもは、善いことばかりの毎日ではありません。
今日はなんてついていないんだろうなあと、嘆いたり、かと思えば、いつも神仏を敬い信仰を抱いているにも関わらず一向に祈りが叶わず逆に神仏をそしってしまうような経験がおありのことと思います。
そのようなことを思うのも、煩悩の衣をまとっている私どもがいつも快く働き生活することが当たり前のことのように思っていることに原因があるからなのです。
しかし、法華経の説くところによるとこの世に生まれてきた者はすべて汚れた醜い娑婆の中で如何に修行するかの道を示しているのです。
嫌な目に合ったらこれこそ自分に背負わされた娑婆の行(法華経と共に生きている自分・神仏に宮仕えする自分・前世及び今生の惑業を滅する時)と思い励みたいものです。
- 祈りと信仰(三十八)
- 2023.08.06
祈りと信仰(三十八)
国民教育研究所が発表した教育に関する白書の中で、人間の能力開発がどのような場合に有効に発揮できるか、その要因が、知能指数とか遺伝とか学習時間の量ではなくて、実は「柔軟で素直な性格」ということでした。
驚くことなかれ、今から二千数百年前にすでにこのような結論が出ていたとは。
つまり、法華経は、元々からどの人間にも素直な性格が備わっていると説いてたからです。
しかし私ども凡夫は、どこで横道に反れたか、素直になれない自分の性格を、代々親からの貰いものと勝手に決め込んでしまう。
といって、いつも将来に何か善いことを期待して先の方しか見ない私ども凡夫は、皮肉なことに大切な自己の源を振り返ったりはしない。
過去世の自己を素直に頂く生き方、これが佛教でいう菩薩行の真の勇気とか努力という。
こうした態度で生活するのが法華経的な人生と云えまいか。
今から、思い切ってこだわりを捨てて謙虚に生きてみたいと思う。
何時も読んでいるお経のお自我偈の中の一節に、
『質直にして意(こころ)柔軟に、一心に佛を見奉らんと欲して、自ら身命を惜しまず』とあります。
素直にものを見、素直に聞き、素直に実行する。
簡単なようでなかなか難しい。ただ、自己の源を振り返る修行なのだが。
日蓮聖人は次のように説く。
(垂迹法門の一文から現代語訳)
「人は時に怨むことがあっても、元々の心が素直であることに気が付けば佛や神はその人を守護し続けよう。云々」と。
- 祈りと信仰(三十七)
- 2023.07.30
祈りと信仰(三十七)
信じていた筈のものとは、一体どういう事なのでしょうか。
私たちの生活で大切なものは、お互いの信頼関係にあることは云うまでもないことです。
所が、日常生活でも一寸したことで、親子・夫婦・友人関係で思いもよらない気まずい関係に陥ることは、誰にも経験のあることと思います。
しかし、何故、このようなことが生ずるのでしょうか。
釈尊が一言でもって諭されたのは、「執着」なのです。
いうならば「こだわり」です。
自己にも、相手にも固定的な立場(我)で見てしまうので相手は勿論のこと自己についても正しいありのままの姿をとらえることが出来ません。
この現実がただ一時でも止まっていない無常であるということを教えておられるのです(無我)。
それをあの人は以前こういう人であったなどと今もそのように勝手な思い(我)をしてしまったり、天気予報でも昨年の今頃が非常に寒かったからといって今年が必ずしもそうなるとは限りません。
現代社会は科学技術が飛躍的に発達しておりますので、統計的に物事を判断する傾向が多いので、たいへん危険な思想が蔓延致しかねません。
人間の自然な心が失われる大きな原因といえます。
お話を前に戻しますと、私たちが何を信じていたかと申しますと、それは、お互い個々に変わっていくものを変わらないかのように勝手に信じたのです。
そこに根本原因があった事に気がつかなかったのです。
釈尊は、この根本真理を説いたのです。瞬時に変化する事実をありのままに見る事を教えられたのです。
これを法華経の思想からもうしますと「諸法実相」と申します