風の色
- 風の色(十五)
- 2021.11.28
風の色(十五)
実は、青年期の糸と言っても自分で紡いだ糸ではなく、そのよってきたる根源は自分の生まれる以前より更に遠く父母未生にもさかのぼるかけがいのないものではないかと、今頃になってそのことに気がついてきた。
いや、今頃とは笑止千万、お陰様で教えて頂いたというべきだろう。
過去遠々の積り積もった善業や悪業が、無限の時を経て現在の自己につながっていることは自明のことである。
その間、どう転ぼうが起きようがそこには一貫して不変なものが流れている。
それが“いのち”(ご本佛から授かった尊い命)である。
その“いのち”の存在に係わり、問いかけることが漸くできたと言える。
それは、単なる観念的なものでなく信仰という体験が育んでくれた感性しかないように思う。
自己というのが自分だけの存在でなく“いのち”との関係ではじめて成り立っていることがおぼろげながらわかりかけてきた。
そして、その心の正体が、見えざる糸から繰り出されてくるご本佛のはたらきであることも確かだ。
幼いとき経本を涙で濡らしたり、師父と倶に歩いた寒修行、そして撃鼓行脚してきた体験から、何故あのように無心に大きな声でお経やお題目を唱えられるだろうかと考える時、やはりそれは“いのち”との感応なくしては唱え難いものだからである。
発菩提心にせよ菩薩行にせよ、この“いのち”との感応あればこそ価値あることを、釈尊が法華経の寶塔品の中で「皆是真実」と言わしめたものである。
終生、前述のかけがえのないものを見つめつつ生きねばと思うこの頃である
- 風の色(十四)
- 2021.11.21
風の色(十四)
青年期の糸で限り無く愛しい思い出がある。
日蓮宗の本山である鎌倉の本覚寺で一ヶ月余り文字通り居候しながら大学に通ったことがある。
ここの貫首様は師父と親友の仲、好きなだけ居なさいと歓迎してくれた。
ことあれば法要に出仕してお手伝いする時があつたが、たいていは自由に振る舞えた。
そこで、この機会にと日蓮聖人のご霊蹟を訪ねたり、由緒ある史跡を歩きまわりながら静かで落ち着いた鎌倉の歴史的風土を存分に満喫した。
境内の雑用は仲の良い老夫婦が早朝から夕刻まで働き通しだった。
お二人は熱心な信者、境内の片隅の小さな庵に住まわれていた。
時々、遠慮しながらお邪魔したことがあった。
老夫婦は何時も明るく迎えてくれた。
立派な書院に半ば緊張しながら寝起きしている私にとっては自坊(水沢の寺)に帰ったようで、狭いながらも自然と気が和み親しみが湧いてきた。
ある時、老夫婦からこんなことをきかれた。
「気になさらないで下さい」と断って「書生さんの鼻の真中(急所)に傷跡がおありだが、どんな事情か分かりませんが、危ないところだったでしょう」と。
小さい頃に、二度も同じ所を怪我した体験をお話した。「書生さんはその傷のお陰で一生悪いことが出来ないね!それはきっとお釈迦様(久遠の本佛)のお計いですよ、有り難い傷と思って大切になさるんですな」と。
当夜、その言葉を繰返し繰返し、夜が更けるまで寝床で考えた。
ひそかに醜いと気に止めていた鼻の傷、見方によって尊く感じられた事に不思議な興奮を覚えたからだった。
今の今まで佛意のようなこの糸も切れないでいる
- 風の色(十三)
- 2021.11.14
風の色(十三)
多分中学二年の頃だと思う。
知らないうちに出家得度させられていた。
このことは大分後になって分かったことで、しかも師父から直接ではなく母から聞かされ、半ば諦めて自暴自棄に陥っていた。
師父は全く問答無用でその手続きを内密に済ませていた。
私にしてみれば、反抗も出来ず、長い間心の奥底で悶々と悩み続けていた。
しかも、トコトン性根を鍛えようとする師父の強い波で自我意識さえ溺れそうになり、一時もその葛藤から解き放される事はなかったと思う。
信仰はそのような為にあると思って何度か心が晴れるならばと本堂で独り読経と唱題に集中したが、所詮哀しく虚しい涙が流れるだけで避けがたい宿命のようなものにおののき、不安は募るばかりで行き場を失いかけた事はしばしばだった。
最近、何故か青年期の頃に回帰する日が多い。
ある意味で老いの始まりではないかとひそかに考えている。
それに、今になって尚も当時の事が夢に現われて心を傷めているからである。
その頃は、喩えようがないくらい心が荒んでいた。社会や人間に対する不信感、常に心の中に潜む猜疑心、所謂、地位や名誉があり、しかもお金持ちと言われる人の偽善的な振る舞いとそれに隠れながら横柄で傲慢な態度に、ひ弱な声だったが「断じて許せないものは許せない!」と心の中で叫び続けていた。生まれてこのかた、数多くのえにしの糸が何本か体内から離れつつあるが、その内の何本かの糸が切れないでつながっていることを自分の心がよく知っている。
この糸こそが青年期のもので、きっと未来永劫切れないような気がする。何故なら、この糸こそが今の私の心を支えてくれているから。
- 風の色(十二)
- 2021.11.07
風の色(十二)
私は、法に仕える専門職である僧侶としての基本的な修行態度は、例えば、「佛道に叶う振る舞いの基本は、己の内にある心を観ることが大切である」と教わってきた。
二十代も後半のころ、お棚経に回っていた時の事である。
各家のお仏壇に法味を言上して御先祖様やご当家の家内安全を至心に祈るのである。
以前から老僧は「各家の仏壇に奉安しているご本尊(ご本佛様)に向かって、至心に祈ることを肝に銘じて歩け」という。
いよいよ内なる心を観る体験に出会う。
或るお檀家さんの家を訪れた際に「何のご用ですか?」という。
棚経で袈裟と念珠の姿を見れば一目瞭然の筈、しかし、迷惑顔で玄関払いにあった。
次のお檀家さん、お経中、決まってその家族はテレビに夢中、その音でお経の声を遮ってしまう。
終わって一礼して帰ろうとする後を追い掛けて玄関先で畳にすりつけて布施を出す。
黙して受け取らず、寂しくその家を後にした。
これを平気で受ければ物乞い坊主。
ちょうどそれは「布施をくれてやる」という態度。
所詮、それだけの自分と知るが、やるせない気持ちで次のK家を訪れた。
「おまちしていましたよ、さあさあ、お上り下さい!」
お経の最中、何故か私の目頭から大粒の涙が流れて止まらなかった。
この奥様の「惻隠の心」に感激したのであり、菩薩行の心を学ばせて頂いた。
足を棒にして棚経しても『坊主まる儲け』等の声まで聞いたが、耐えてきた。
ご本佛様の御心を頂いている事に限り無い感謝をしているから。
今もこれに似た事がままあるが、己の内にある心を観させる為の娑婆(忍土)の修行と思っている
- 風の色(十一)
- 2021.10.24
風の色(十一)
大学三年の夏のことである。
身延山の西谷にある信行道場で法友と修行を倶にしたことを思い出している。
信行道場とはいわば日蓮宗の僧侶資格を得る初門で、三十五日間、文字通り止暇断眠、行学二道を修める所である。
毎夜、就寝前である。決まって主任先生は法華経の読誦の後にその部分を講義された。
道場生の大半は睡魔に襲われてそれこそ夢中で聞く始末。
前後不覚、誰とも知れず突然に床に頭を打つ音で一時皆が目を醒ますことしばしばであった。
講師先生は何も注意せず淡々と話されている。
耳を立てて聞いている者だけに向かっておられる。
しかし、時に講師先生は本論からやや脱線してご自分の体験談を述べられることがあるが、そんな時に限って目が醒める私は、不思議と本論より脱線部分が印象に残っており今でも記憶に新しい。
「ある日、師匠に随伴してよそのお寺さんに法要に行った時である。そのお寺さんの恒例で法要前には必ず法話をする慣わしであった。所が法話をする予定のお上人様が都合で来れないとのことで、俄にその代役を仰せ仕った。当然のことながら師匠も断わってくれると思っていたがさにあらず逆に師匠に説得されてしまい、法座に立つはめになった。急なこと故何を話したか一向に覚えていない。とにかく恥をかき、その上聞く人に大変迷惑をおかけしたことが悔しくてならなかった。しかし、それ以来というもの坊さんはどんな時にでも布教師としてお話できるように日頃から研鑽を深めなければならないことを悟った。云々」と。
今も尚、継続してこのことを謙虚に受け止めている。
今夏、愚息、宣周(周を改め)は、同じ信行道場で何を学んでいるのだろうか。
- 風の色(十)
- 2021.10.17
風の色(十)
ここ数年、狭い境内ながら所々に紫陽花が色とりどりに咲くようになった。
朝勤の後、境内を歩いていると、その上をうねるように小さな蝶が戯れている。
お題目の余韻が体内から抜けていないのだろうか。
不思議というか、梅雨時の雨上がりに僅かな木漏れ日がさす風光にこちらの心が和む。
蝶や紫陽花に聞くべくもないが、兎に角、こちらの心が向こうから伝わってくる感じがするのである。
その風光にしばし時を忘れている。
あるがままに、妙法の響きとしか言いようがない。
抽象的な言葉でしか表現できなくて残念に思うが、それぞれの命が大きなはからい(久遠の本佛)の中に生かされていることだけは事実である。
拙抄「風の色」をお届けして早くも二年の歳月になろうとしている。
序でも書いたようにあらゆる命が不断に生かされていることへの永遠なる問いかけである。
どの道、今の私にとっては二足の草鞋だが、この現実に否定も肯定もしない。
教職も僧職も程よくバランスを保っていると思う。
様々な視点を持てることが現実を知る上で多いに役立っているからである。
しかし、私の問いは仕事を離れて裸の自分になった時、真に支えとなるものに出会うことではないかと思っている。
何時も、一凡夫としての修行に身を入れよとの声が遥か遠くから聞こえてる。
素直に心の耳を澄まして聞くしかない
- 風の色(九)
- 2021.10.10
風の色(九)
私が最初に憧れた僧侶像といえば大袈裟だか、学生時代に言葉に尽くせない程お世話になった長運寺の御前様だった。
しぐさや言葉遣いも洒脱でその身全体が清楚で、特に頭面をきれいにされていたところが印象に残っている。
「まず僧侶の姿は頭面にあり」とまで思ったほどである。
或る日、御前様の曰く「頭を丸めて僧衣をまとえば誰でも僧侶と見るが、誰もが着る普段着の姿のままでも僧に見られるようにならなければ本物でない」と。
さすがは御前様の云われること。当時、有髪姿だった私はこの言葉どおりに生きることを真剣に心に誓ったつもりだったが、心の隅にどこか自分に都合の好い理屈でごまかしているような気がしていたのも事実であった。
卒業後、田舎の教師になっても、このことにこだわり続けて十数年経ってからのことである。
縁あって埼玉県にある布教養成所に入ることになった。
そこの化主である日蓮宗の布教師の第一人者であり、私の心の目を開かしめた最初の師である石川泰道先生の謦咳に接する機会に恵まれ、見事に前述の観念戯論が吹き飛ばされた。
師の曰く「殆どの僧侶は頭面に剃刀を当てるのが普通であるが、現今、果たして心に剃刀を当てる僧侶はありやいなや」と。
この時も有髪だった私は、この言葉を聞くや一念発起。
理屈だけが先立ち佛道への誓いは遠く心にまで届かない自分、まして頭面にさえも当てることが出来ないのが情け無く思い、帰山して直ぐ床屋さんへ飛び込んだ。
ようやく三回目にして頭面がきれいに丸くなった。
佛道はまず姿や形から入り、心に納まってそこから再び外に顕れる。
御前様の真意に一歩近づけたことに感涙一滴。
- 風の色(八)
- 2021.10.03
風の色(八)
お経を読んでお題目をあげることは、縁が有れば誰でもできることである。
いわば僧侶でなくとも達者な人は沢山いることを知っている。原始佛教以来、聖職者と在俗の区別がはっきりしていたが、現代の社会では概ねその別はなくなってきているようである。
善し悪しは別として、誰でもが平均的というか並列的というか、何故かそんな社会になってしまった。
ひと昔前までは、僧侶もそれなりのプロ意識があってそれに恥じない言動が衆目の一致するところであった。
私が少年の頃に見た高僧の姿があまりにも印象的で、学生時代に将来の自分の姿を見る時に決まってこのことから離れたことがなかった。
一方に理想象を片方ではそれと矛盾する生活に「あれかこれか」の選択にいつも悩んでいだ。
お盆の棚経でのことだった。
小岩に一人住まいの高齢の老夫人は何時でもこぎれいに身支度し私を待っててくれていた。
一緒にお経やお題目を唱えて下さる。
終わると丁寧に蓋付きの湯飲み茶碗で歓待して下さった。
恐縮して身を小さくしていると、「あと何年生かして頂けるか知れない私にとってこうしてご一緒にご本尊にまみえることが何よりも幸せですわ」との恐れ多い言葉に身が引き締まる思いだった。
不思議にも心が休まりいやが上にも佛の大法に導いてくれていることに気がつき、これもお題目の功徳と素直に感謝できた。
勇猛心が涌くというか、この方の真面目な信仰心に恥じない生き方をと心に誓ったものだった。
この時初めて理想が現実の中にいきていることを悟ったような気がした。
- 風の色(七)
- 2021.09.26
風の色(七)
檀信徒の各家々のお仏壇に向かってお経をあげて歩くことをお棚経という。
本格的に始めたのは大学時代である。
老僧と昵懇の関係にあった東京は台東区谷中の長運寺様にお世話になり、春秋のお彼岸そしてお盆と年に三回(延べ十五日間)お棚経の経験をさせて頂いた。
一日平均十三、四軒だったが、早朝より日が暮れるまで足が棒のようになるまで歩いた。
まず早朝千葉の柏市から始まり、東京の小岩に戻り、総武線で新宿周辺の数軒を終えて再び千葉の松戸へ行き、更には品川区の荏原で終了したときは午後七時過ぎであった。
勿論谷中に戻って来るのが九時を越えていた。
体の疲労感は想像も及ばないが、気分的には恙なく終えた安堵感で満たされていた。
当然ながら家族そろって合掌して頂き共にお題目を唱えられたことは今でも懐かしく生涯忘れないだろう。
しかも未熟でアルバイト感覚の学生僧がお邪魔するにもかかわらず訪問する先々で快い歓待を頂いたことが何より嬉しかった。
故は、お檀家の皆様が長運寺様という菩提寺に誇りを持ちかつ大切にしている何よりの証拠であると思った。
法華経の信仰心なくしてこうまで育ててくれるはずがない。
四年間本当にお世話になった。
出掛ける前に御前様にご挨拶しにいくと、長運寺様の御前様は、ニコニコしながら「三田の誰さんはお経が達者だよ」とか「青砥の誰さんは必ず昼食を準備しているよ」云々と。
このさりげない言葉がどれ程の励ましになったか知れない。
真夏の早朝、谷中墓地を通り過ぎ日暮里駅までの道程は清々しかった。
- 風の色(六)
- 2021.09.19
風の色(六)
自我意識が芽生えはじめた中学時代は思うことと行動が一致しないばかりか理想と現実の狭間にあって自身の人生を深く悩み苦しんでいた。
突拍子もない行動で大人社会に反抗したかと思うと、孤独でひとり沈み込んでは本気で自死まで考えていた頃である。
最初から敷かれたレール(お寺の跡継ぎ)の軌道を走らされるような思いに駆られて、どうにもならない自分の行く末を何度怨んだろうか。
それ故、僧侶の道を歩む上で納得する明確な理念のようなものが知りたかった。
よくその疑問を聞いてくれていたのが、おふくろである。
何度も疑問を投げかけるのだが、その都度おふくろは低く首肯いてただ聞いているだけだったが、有り難いことにそのことだけで心が休まるものだった。
その疑問というのは、偉大な釈尊が説いた佛道に仕え、かつ教化の立場にある僧侶が、何故他から尊ばれる立場にありながら、世間では大人同志が集まれば、「あの坊主は」と異口同音に批判をしたり蔭では悪口さえ云われているのはどういう訳なのか、真剣に考えざるをえなかった。
そして、そのような暗くて苛められそうな世間にどうして自分のような未熟な者が耐えていけるだろうかとの不安が常にあった。
かつての純真な心にはもう戻れないが、要は黙って「己れの人生を法華経に説く不惜身命の心で修行せよ」との教えに出会ったのは実に四十年後のごく最近のことである