風の色

風の色(三十五)
2022.05.01

風の色(三十五)
先日、久しぶりに本堂の掃除を行った。
およそ半日くらいかかった。
今春までは、自称、寺女(てらおんな)の妻が行っていたが、四月からは、卒業した息子が自坊に奉職するようになったので、専ら息子の仕事になった。
たまたま彼が研修のために不在中ということで、私が買ってでたのである。
ある同門のご住職に云わせれば、本堂の清掃、特にも御宝前だけは絶対に他人に任せないとのことである。
ある意味では専門的な清掃技術を要するものではあるが、必ずしもそうとは言い切れない。
むしろ、御本尊様の棲まわれる宝殿とその前庭を渾身込めて御給仕したいという求道心の発露と受け止めている。
さて、清掃も半ば正座で太鼓の拭き掃除にかかった。
普通にしぼった雑巾で太鼓の胴周りから置き台を拭いていたが、雑巾の水分が一瞬にして吸い摂られていくので驚いた。
かなり太鼓や置き台そのものが渇ききっていたものと思う。
何故かふとその手が止まった。
懐かしい古い本堂でのことが蘇ってきたからである。
小さい頃も、やはり半日くらいかかったと思う。
この太鼓もその当時からのもので、雑巾が擦り切れるくらい必死に磨いたことが瞼に浮かんできた。
しばし向き合っている太鼓から、「初心に帰れ」と諭されているような気分で、妙にも心の中は勿論のこと、辺り一面までが浄土にように感じられた。
太鼓は、非情の物とはいえ遠い過去からお題目を通じて我々を黙々として見つめてきたものであるからおのずから魂を宿している。
この日の本堂掃除から、その魂に触れるという有り難い経験を積ませて頂いた

風の色(三十四)
2022.04.24

風の色(三十四)
「できるのだからしなければならないこと、できるのだからしてはならないこと」
これは、一週間分の壁掛け式の日めくりの一部(木曜日のテーマは《精進》)である。
毎朝、食事前にこの言葉に接する度に心新たにしている。
かつて、唱題行修行の最中に、化主の権藤上人から法華経の最第一の修行は、自我偈(法華経第十六章壽量品の偈文)の中にある『一心欲見佛、不自惜身命』(一心に佛を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず)に尽きるとの言説に深い感動を得た。
いつも佛(ご本佛)の子であることを心に忘れなければ、決して身命も惜しむこともないのに、惜しむ心が涌くのは、佛子の自覚が無い証拠である。
だから佛の御意に叶うような生活を心がけ、鏡に映ったわが姿を佛がその奥から慈悲の眼で看ていることに気がつかなければならないと。
冒頭の前段の言葉は、誰しもがそれぞれの役割に応じて等しく与えられているこの世での使命を全うすることであるが、後段の言葉は、なかなか難しいが、要は、自らが佛の子であることを忘れずに精進せよとの親心と思っている。
今も私の心のどこかに「できないからしてもよい」という甘えがある。
むしろその方が楽でよいが、虚しさだけが尾を引いて離れないのが現実。
所が、法華経の修行観は、暗に辛いことの中に既に真の安楽の種子が含まれていることを示唆している。
だからこそ、この葛藤を超えねばと、この言葉の意味を噛みしめている。

風の色(三十三)
2022.04.17

風の色(三十三)
つい先日、久慈高校の卒業生N君が二十数年ぶりだろうか、何の予告もなく来訪した。
彼は、私が顧問だった郷土史研究会というクラブ活動の一員だった。
やや風変わりで、いつも寂しい後姿が印象的であった。
何時ものことで、学校からの帰途、私の下宿を見れば既に窓は明るくなっていた。
彼が勝手に部屋に入り込んで、私が読みかけていた佛教等に関する本を読んでいた。
私が帰ると「お邪魔してます…」と言ってお茶を沸かして待っていた。
ある日、急に夜中に起こされたことがあった。
玄関に出てみると彼の顔面が涙でクシャクシャ、理由を聞くこともなく静かに床につかせた。
余程の悩みがあったものと察したが、翌日もそのわけを聞き糺すことはなかった。
結局、いろいろなことがあって佛教系の大学に進学したが、三年で中退、窯業に一縷の望みを託して技術を身につけ窯場まで興して独立したが、理想と現実に悩みつつ、酒に身をやつす日々を送っていたらしいが、その後は知る由もなく現在はある宗教団体の幹部。
時を越えても彼と私は以前と何一つ変わっていない。
「実は、自分の今ある姿の九九%は先生なのですが……」
「もともとから君の心中にあった佛種(佛性)に縁を与えただけのこと」
「それを今までの人生の中で芽を育てて様々な花を咲かせてきたと思う」
「そうでしょうか、…………」
「いずれ最終的には蓮華の花であって欲しいが………」
雨の中、彼を見送りつつ、彼との新しい縁が始まることを予感した。

風の色(三十二)
2022.04.10

風の色(三十二)
前回に続き「変化の人」との出会について触れて見たい。
かつて唱題行(精神統一してお題目を唱える行法)がご縁で、全く思いもよらない未知の方、O婦人と出会い、有り難い慈恩に浴したことを述べる。
これこそ一念信解の妙用というか、本佛のはからいそのものと悟ったからである。
当時、O婦人は神奈川県の一村から数時間かけて、東京は練馬区の釈迦本寺(唱題行の道場)に参拝され唱題行に専心されていた。
彼女は岩手県和賀郡のご出身でこの道場の化主である権藤上人から私のことを聞き及び、早速に、同郷を懐かしみつつ実家にあるご先祖の供養の一分として当山宛に相当のご寄進を届けられた(発菩提心)。
現在の庫裡の正面玄関は彼女の菩提心によって出来あがったものである。
次いで、法衣や佛具等お心のこもった布施行にあずかり、まさに「変化の人」をして本佛が私に対して更なる精進を励めとの黙示と了解した。
その後、彼女とは何度かお会いしたが、お題目に無関心なご主人を何とか導き入れたいと事ある度にお話されていた。
その後、ご夫妻で当山を訪れる機会があり本堂で簡単な法要を営んだ際に、何とご主人の口からお題目の声が流れてきた。
彼女は、嬉しさの余り目頭を押さえておられた。
彼女の燃えたつような利欲抜きのお題目信仰は、遂にご主人の佛性をも呼び覚ましたのである。
とかくこの世は「あぁして下さい」「こぅして下さい」という己の願望を優先する信仰態度がはびこっているが、やはり彼女のようでありたい。

風の色(三十一)
2022.04.03

風の色(三十一)
法華経に「変化の人を遣わして之がために衛護となさん」(神佛が、かりに人の姿となって現れ、法華経を信じて行ずる者を護り育ててくれる)とある。
私にとってこの変化の人を初めて意識したのは、少年の頃だった。
師父の厳格な躾は、私の逃げ場を閉ざした。
耐えきれない思いで自死に及んだときに、私の腕を抑えて必死に留まらせた方がいた。
その方は、私にとって普段から近づきにくい近所のY婦人だった。
その日の夜がとても長かったことを今でも鮮明に記憶している。
興奮がさめず頭の中は何もかもが一杯で全身が振るえていた。
この世に何ゆえ生を享けたのか、自分のおかれた宿命(さだめ)に押し潰されそうなこの身を思えば思うほど悔しさで枕を濡らした。
しかし、同時に何故にあの方が私の行為を止めてくれたのか、そのことに人智を超えた不思議なはからいを感じていた。
数日後、いつもの朝勤の折だった。
途中でお経を間違えた(よそごとを考えて)ため、師父の鉄槌がすかさず飛んできた。
その時、“はっと”今お経を読んでいる自分に気がついたのである。
あのY婦人が私を止めていなかったらこの時がないと。
不思議なまでに素直にY婦人への感謝の気持で一杯だった。
この時は、変化の人などという経文の言葉すら知るはずもなかったが、そのはからいの源をおぼろげながら意識した。
佛の心を幼いなりに知り得たものと思う。
Y婦人の二十七回忌が今年営まれるが、命の報恩行として霊位に向い感謝の法味を言上する積りでいる。
その後も、数多くの変化の人に護られてきた。
知らずとも身近におわす人なれど佛は変化と為し給う

風の色(三十)
2022.03.27

風の色(三十)
前回に続きT婦人について触れてみたい。
彼女はまさに信仰一筋から得た豊富な知恵に満ちていた。
私が学生時代の頃、夏冬の休みになると一番先に訪問し、佛壇に向い法味を言上した後は、日が暮れるまで、特に大学で受講した内容を報告しながら佛法について語り合った。
当時は、一部で史学を専攻し、同じ大学の二部(夜間)で佛教学部の専門科目を受講していた。
たしか祖書学講義の中で茂田井先生が「この世に存在するすべての現象はすべて釈尊の説法(経典)の姿である云々」と述べられたことがどうしてもわからなかったことをT婦人にお話したことがあった。
ところが、彼女は、その話を聞くなり首を縦にふりながら語ったことがとても印象的であった。
「このように二人で向き合って法華経のお話をしていること自体が不思議なことなんですよね、この時をつくってくれたのは外でもない久遠の本佛様だと思うし、その久遠の本佛様が釈尊をこの娑婆国土に遣わされて有難い法華経という経典をこの私たちに遺してくれたればこそ、あなたとこうして出会えたのです。云々」
まるで時を超えて釈尊在世そのままが今と同時に存在するような、そんな感傷に耽ってしまっていた。
佛法の本質を弁えてなくては話せない言葉であった。
今、そのことを思い出しながら、どうしてあのような哲理を極めておられたのか今もってわからない。
勿論、それは沢山の本を読んで得たというような生半可なものでなく、心の奥に燦然と光る玉のような知恵があったにちがいない。
日蓮聖人の一説がそれを証明しているからである。
「譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し(中略)これを磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、云々」(一生成佛鈔)

風の色(二十九)
2022.03.13

風の色(二十九)
私にとって小さい時から親同様に可愛がってくれた篤信のT婦人が重病を煩い入院後まもなくしてこの世を後にしたのは今から十七年前、凍てつくような寒い時だった。
症状は末期のご様子と聞いていたので、面会も制約があったと思っていたが、比較的自由に応じて頂いた。
そこは陽光が一杯にさす静かな個室だった。
お見舞する度にとても喜んで下さった。
しかし、症状がかなり進んでおられたようで、激痛の頻度も増してそれに必死に耐えておられた様子が痛いほど伝わってきた。
にもかかわらず、時には笑みさえ浮かべてお話されるので、逆にこちらが慰められているような緊張感で冷や汗が脇の下から流れるのを感じていた。
T婦人のこのような強い精神力というか、ご本佛様を信じきった心構えに人間の尊厳な姿をみた。
その都度、しっかりした口調で、残す家族の事などいろいろと後事を託しておられた。
「私のような女でも、値い難き人間に生まれ、更には値い難き佛法に会い、その中にも法華経という尊い教えに導かれ、不思議のお題目を唱えさせて頂いた人生には何の悔いもなく(ご本佛様に対して)有難いという感謝の一言です。」というT婦人のお言葉は何時までも消えないでいる。
このような内容の言葉は遥か以前より伺い知っていたが、病床でしかも末期の時だけに一層真実味がこもっていた。
この時に私は、T婦人がもう既にご自身の命について、さほど遠くない事をその瞳の奥から感じていた。
晩年になってT婦人は、信仰面においてあまりに厳格なご気性なので、他から敬遠されもしていた。
その意味で孤高に生きた方といえる。
孤高といっても、その中身は寂し過ぎる。
それも人の一生と多くのことを学ばせて頂いた。

風の色(二十八)
2022.03.06

風の色(二十八)
今は亡き師父は、昭和五十六年、私に住職を譲ってから、隠居の身として暮らすようになった。
この年が丁度、宗祖日蓮聖人の第七百年遠忌に当っていて、師父もこの機会に法燈を私に託したものと思われる。
私は、終身現役で住職の任にあって欲しいと願っていたし、その方がむしろ心身共にふけることなく健康でいられると思っていた。
しかし、師父は、何の迷いもなく隠居を決断して自ら手続きを済ましてしまったのである。
普通なら師弟の間に後継の確認ぐらいはあるものと思っていたが、この時の師父の心境には師弟の間柄というよりも、むしろ親子の情に傾いていたような気がしている。
多分、私に法燈を継承しても安心だというより、後はお前に任せたから好きにせよという軽い気持であったと思っている。
この時の師父は世寿八十二歳である。
案に違わず、めきめきふけ込んでいったが、私が病気で入院した途端、またもとのように元気を回復した。
これが佛法に仕える最後の機会と思って毎朝勤行に精を出したようである。
私が退院すると、殆ど部屋に閉じ篭もり、何故かよその人を避けるようになり、専ら好きな本を読んだりしていた。
その内、次第に体力が衰え寝込むようになった。
そして臨終までの七年間、病いとほどほど仲良く暮らしたと思っている。
その生き様は、何の不平もなく、感謝の一念、任せっきり、何事もよきにはからえであった。
何事かを問えば、その返事が笑顔であったのが印象的だった。
このような生き方の善し悪しは別として、老いの生き方を沢山教えて頂いたと思っている。
まさに法華経信仰の賜物と深く肝に銘じている。

風の色(二十七)
2022.02.27

風の色(二十七)
日蓮聖人の御遺文の中に、『苦をば苦と悟り、楽をば楽とひらき、苦楽共に思い合せて南無妙法蓮華経とうち唱へ居させ給え此れ豈に自受法楽にあらずや』(四條金吾殿御返事)とある。
前回「やるべき仕事を求めて」-求道の道を-邁進するしかないといったが、いささかおおそれた表現で恐縮している。
私にとって娑婆の修行とは、苦修練行というよりは日々の暮らしそのものと言ってよい。
それは、お寺でも学校という職場でも家庭でも一般社会でも、何処においてもその時その場が修行であると思っている。
特にも私を取り巻く人間関係を抜きにしては考えられない。
私も含めて、自分が一番正しいと思い込んでいる節がある。
他人を羨んでは嫉妬心をおこしたり、また他人の欠点が目先にちらつき、愚痴とも思える悪口をなしてはますます自己嫌悪に陥るのがお定まりである。
この繰返しが自分なりの宿業を積み重ねていくことになる。
最後は、この世は嫌なところとなるが、結局、そこから避けられない宿命に置かれているのである。
冒頭の言葉は、何時も私の胸に置いてある。
しかし、悲しいことに業が先に出てしまい、折角の戒めも影を薄めてしまう。
だいたいこの世においては、楽なことより苦のほうが殆どを占めている。
だからこそ、その苦との暮らし如何んが、人生を寂しいものにするか豊かにするかとも言える。
誰しも心豊かでありたいと願う。
実は、こうした娑婆の修行なくしては、求道の原点に立てないと思っている。
それは、苦をば苦と悟り楽をば楽とひらくところから始めねばと思いつつ、所詮、人間一生、心の修養と肝に銘じている。

風の色(二十六)
2022.02.20

風の色(二十六)
二十代後半のころ、自分の生命が尽きる時(死)について真剣に考えていた。
ずばり四十代前半と思っていた。
何を今更「五十三年の歳月を生かして頂いて、何事か」と。
風の如く通り過ぎた若いころを回顧している。
教員となった最初の赴任地が、久慈(岩手県内)であった。
私にとってこの地の風土が、内陸に住んでいては到底感じられないロマン的なものに映った。
また、不養生が原因で、病床の中で知り得たキェルケゴール(短命の実存主義哲学者)の作品に心震わせ、潮騒の音で目を覚ました日々は、いやがうえにも詩情をかきたてた。
このままで生きて、せいぜい四十歳そこそこと。
不安は隠せなかった。
確か数え年四十二歳(いわば本厄)の時である。
原発性アルドステロン症という二次性高血圧のため左副腎を摘出した。
入院中は日夜、以前から脳裏に潜んでいた「生命が尽きる時」を意識し続けていた。
もしかしたら「本当かも知れない」と。
人生の中で、死と真剣に向き合ったのはこの時期である。
以後、幸いにして生命を頂いているが、そのことの意味を、退院直後に考えたものだった。
「おまえは、娑婆の修行がまだ足りない、やるべき仕事が済んだら来い」と。
きっと、ご本佛様の思し召しに違いないと思った。
それ以来というもの「生命が尽きる時」とは、こちらが推し量ることより、ご本佛様のご意向に添えば安心と思うようになった。
そして、何より「やるべき仕事」を求めて(求道)生き通すことしかないと。

命限り有り、惜しむべからず、遂に願うべき者は、佛国なり。
《日蓮聖人 / 富木入道殿御返事》