風の色

風の色(四十五)
2022.07.17

風の色(四十五)
佛典諸説は、我々がこの世に人間として生まれることの希有なることを説いている。
一方で、人間は、あらゆる生き物の中で万物の霊長類として最も崇高な存在であることは誰一人として疑いを入れない。
ところが、我々の殆どは、普段から、何故自分が人間としてこの世に生を受けた深い意味や因縁などをあまり考えたことがないばかりか、このこと自体に神秘性や不思議さを感じていないのが事実である。
このことは、小さな種粒から美しい花を咲かせる植物の不思議さを分かっていてもその謎が解明できないのと等しい。
ところで、現代社会は、いったい何に向かって進んでいるのだろうか。
そして人間自身は、高度な文明社会の中で何になろうと生きているのだろうか。
ひょっとすると、久遠の本佛(全宇宙の真理)は、人間がこのような難問に向き合って生きるようにうようにはからっておられるのかも知れない。
この世が人間だけの世界でないと。
そしてあらゆる総てのものが解け合って成り立っているものと。
宮沢賢治が「農民芸術論」の中で『新たな時代は、世界が一つの意識になり、生物となる方向にある。』との如く、今はその道程に在るとしか思えない。
「風の色」(結号)は、人間は勿論のことあらゆるものが「久遠の本佛」を内包する存在であることを述べてきたつもりである。
いささか深まりのない内容にも関わらず激励文やらご支援を賜った沢山の方々に茲に深く感謝申し上げます。

風の色(四十四)
2022.07.10

風の色(四十四)
法華経の如来寿量品第十六の偈文(自我偈)の一節によると、
『この世というものは、凡夫の目で見たら苦しみ悩み多き煩悩の山(娑婆)で埋め尽くされているものである。
しかし、御本佛の目で見たら安穏な浄土そのものといえる。』とある。
このように、法華経は、娑婆がそのまま浄土であることを我等の現実生活の中で矛盾無く生き通すことを理想(成佛得道)とし、かつそれが可能だとしている。
当たり前のことだが、誰もが、この世が浄土でありたいと願わない者はいない。
してみれば、御本佛の目でこの世を生きるしかないといえる。
それを、別に言い表わすならば、御本佛の魂(妙法蓮華経の五字)そのものが凡夫の身に内包されていればこそ法華経の理想が得られるということになる。
もともと御本佛が成佛得道の丸薬を妙法蓮華経の五字の袋の中に入れ、末法に生まれてくる全ての我等凡夫の首に懸けさせている。
それを自覚することが凡身に佛心を観るということであり、それを信の一字で素直に受け入れることが妙法蓮華経に南無(帰依)して唱える南無妙法蓮華経のお題目ということになる。
従って、日蓮聖人の説かれる娑婆即寂光土、凡佛一如がお題目なくしてはあり得ないことと同時に、この「風の色」のテーマでもある全ての人々が真の自己(佛性を持っている存在)に出会って御本佛の道を歩むよう願わずにいれないのである。

風の色(四十三)
2022.07.03

風の色(四十三)
この「風の色」は、五年前、某高校の文化講演会での演題に端を発している。
この講演の内容は皆様にお届けしているこの「伝道はがき」のものとは全く異なっているが、私にとっては、同義別語をもってお伝えしてきた積もりである。
今このテーマの終焉近きに当たり、何故「風の色」という題としたのかを再びその源に帰って「テーマ」の持つ意味を考えている。
抑も「風の色」と題した発端は、人間が自らの我欲に縛られて本来存在している真の自己(佛性を持っている存在)に出会わないでいる事への問いそのものだった。
本来大乗佛教でいう佛性は、この世に存在する我々凡人は勿論のこと総てのものに宿っている大慈悲心そのものであり、自他彼此の区別なく愛と慈しみを無条件で捧げたいとしている生命活動そのものと言える(森羅万象が持つ理想とする幸福観)。
端的にいえば植物と動物との生命活動はそれぞれ別々の役割りを持ちながら共に酸素と二酸化炭素との依存関係無くしては共存出来ないと同様に、自然界は云うに及ばず我々人間同志も例外なくこのような生命活動を理想と願いつつ生きようとしているのは、佛性が我々の心に内包している何よりの証拠であるといえる。
しかし、我々が住むこの現実を見れば、寂しく悲しくそして苦しみ悩みが尽きない煩悩の山といえよう。
隠れているというよりは眠っているのかも知れない。
日蓮大聖人は、このような煩悩の山に分け入って珠玉の佛性を呼び覚ます為の一大良薬としてお題目の信仰を説き顕された。

風の色(四十二)
2022.06.26

風の色(四十二)
私は、この春に定年まで六年もの歳月を残して三十二年間の教職を辞した。
時の流れは早く、はや三週間を過ぎようとしている。
新聞発表や風聞で知り得た多くの方々にお会いして頂いた言葉を連ねてみる。
先ず、「長い間ご苦労様でした」という労い、「おめでとうございます」と、祝福と激励を頂いたかと思うと、逆に「よく決心されましたね」「本当にびっくりしました」「勿体なかったですね」「何も今辞めなくとも」という寧ろ教職の方が似合っているようだし、それにサラリーマンの方が楽なのに何やら無鉄砲な決断をしたという憐憫の入り交じったご厚情を頂いた。
中でも「正直云って奥さんが気の毒ね」という最も現実的に収入を閉ざされかねない無責任さを揶揄したようなお言葉には、今なお深く胸を痛め続けている。
どの言葉も自分にとって勿体ない有り難いものばかりで感謝している。
就中「おめでとうございます」は、前途を祝して下さるようで何よりだった。 
今後、佛法の布教と寺門の経営に心から支援して下さる温かいお気持ちこそが私の命を心底から支えてくれると思うからであり、たとえこれからの道がどんなに険しいものでも、その言葉が、唯一「ご本佛の御心」と思って精進の励みになるからである。
さて、そのような私の勝手な思いは思いとして、檀信徒の皆様をはじめ多くの方々は、当然の事ながら、何一つ今までどおり変わるところがないのも現実である。
もしもこの現実が永遠に続けば、きっと決断した意味が問われることになるだろう。
ご本佛の御心に沿っていくしかない道を、頼りない草鞋だが紐を締め直して徐々に歩き始めるつもりである

風の色(四十一)
2022.06.19

風の色(四十一)
二足の草鞋(わらじ)もいよいよ一足になる。
履き慣れた一方の草鞋(わらじ)(教職)には言葉に尽くせないほど世話になった。
価値のある草鞋(わらじ)であったことを感謝している。
元々底がすれ切れている草鞋(わらじ)だが、残されたこの一足(僧職)で生涯歩くことになると思うと正直云って心細く先が不安でならない。
脳裏に描いているとおりの道を歩くことならいざ知らず、全く思いもかけない道を歩くとなれば余計である。
では、何故今この道を選択をしたのか、自分なりに答えねばと思っている。
そもそも私の思考の根底には「今、何故仏教か」があった。
お釈迦様が説いた八万四千の法門や教説は無量に等しいものだが、要をもって云えば、この世に生きる人間を佛の道に入らしめんとの願い(本願)に尽きると云ってよい。
特にも法華経の説く世界は、森羅万象ことごとく佛の姿でなければ、この世は浄土であり得ないのである。
ところが、私たちの住んでいる世間一般は、穢土と云って人間の悲しみや苦悩は尽きないどころか、天災まで起こって生き地獄のような生活の中、ほんの刹那的な喜びで心を癒しているのが現実と云えまいか。
このようなことの繰り返しでは何時になっても浄土などこの世に顕現できないのは当然である。
しかし、法華経は、本質的にはこの世はありのままの姿で浄土であると説いている。
それは、あくまで凡夫の心が穢土と観るだけで、佛の心から観れば常住不変の楽土なのである。
してみれば、どのようにすれば佛の心で観れるのかを皆さんと倶に歩んでいく価値があるものと確信し、今こそ、微力ながら私なりにその道に足を踏み入れる時と判断した所以である

風の色(四十)
2022.06.12

風の色(四十)
『まがれる木は素直なる縄をにくみ偽れる者は正しきまつりごとを心にあわずと思う』
日蓮聖人御遺文《新池殿御消息》
正直者と云えば、今は亡き師父のことを思い出している。
曲がったことが大嫌いでそのために多くの人と真っ向から激突していた。
ほどよいところで妥協しておれば自分の心も痛まずにすんだろうにと思ったことがある。
結局は老獪な世評に押されて悔しがっていた。
もともと短気で誰彼なく罵倒して憚らない性格から、どれほど家族や周りに当たり散らしたか知れない。
そんな師父を見ていてもっと要領よく世渡りができないものかと気の毒な思いをしていた。
しかし、師父の一生がこの生き方で通したことを思えば、へたな処世術を身につけないままで善かったのだと今は思っている。
社会生活の中でよくあることだが、正直者が疎まれる時がある。
邪魔者扱いされるのは自分の純粋な心の中を隠す術を持たないからである。
自分の利欲を優先する人からすれば甚だ疎ましいということになる。
ところで、幼い頃から師父に睨まれるように育ってきた小生にとって、今なお嘘や誤魔化しがすぐ態度に現れてしまう。
そのために今まで恥じいる失敗を幾度となく重ねてきたことを悔やんでいる。
いくら要領が悪くても自分の心に正直に振る舞える心構えを失わずにいたいと思う。
それを支えてくれるのが信仰と思って励んできた。
では、信仰によって培われる心とは何かと問えば、 何時もご本佛様の意(こころ)に包まれていると実感(安心)できる心といえる。
またそのことが己の曲がった心を自然に素直な方に向けてくれるから有り難いと思っている。      

風の色(三十九)
2022.06.05

風の色(三十九)
例年のように親戚に新年の挨拶をして自坊に帰る途中である。
その車の中でカミさんが、ある仕出し屋さんとの会話を話してくれた。
「この辺りは、昨年の暮れから新年にかけて死んだ人が沢山いるの、葬式続きであそこのお寺さんもそれはそれは忙しくて大変だったようヨ。」
「そういえば、あんたの方の寺も忙しいの………?」
「……… 私の方のお寺はね、お葬式が無いんだけど兎に角忙しいの!」
「…………………………………?」
仕出し屋さん、首をかしげて不審そうな顔をしていたというのである。
車中でカミさんが呟く、
「………お寺のことってほんの一部しかわかっていないのネ!…………」
確かに葬儀や法事が中心のお寺さんは忙しい。
仕出し屋さんが言うとおりである。
拙寺は、その意味では檀家も僅少であるからいわゆる葬儀もなくヒマな部類である。
ところが、決してヒマではなく忙しいのである。
人生相談、信仰や祈りを通じての生き方、家族問題や事業等と訪ねて来られる方が少なくない。
実のところ当山の檀信徒でさえ、私(僧職)の本務が葬儀法事だけと思っているのが現実である。
ましてや世間の大方は、死んだ時だけ来るところがお寺と思っていても不思議ではない。
ご本佛様にとってこれほど悲しいことはない。
それは真の佛法の意に反するばかりか、人生で最も大切な生き方を示している佛法と出会うことなくこの世を去る人の多いことを嘆くからである

風の色(三十八)
2022.05.22

風の色(三十八)
今頃の朝の四時半といえばまだ真暗闇、ただ晨星だけがくっきり輝いている。
空気も清冽に満ちて格別に美味しい。
足許を見れば、街灯が濡れた路を仄かに照らしてくれるだけである。
こうした早朝の散歩がまるで別世界に感じるのは何故だろうか、かつて学生時代に経験した信行道場の頃が思い浮かんだ。
身延山の麓で三十五日間、毎朝四時半起床、西谷の急な坂を唱題撃鼓しながら久遠寺の朝勤に出仕した時だった。
私にとっては不思議なほど心の緊張感と爽快な気持ちに満ちていたことを鮮明に覚えている。
今思えば、こうした日の出前の静かな時というのは、きっと森羅万象にわたって根源なる魂が触れ合う時ではないかという気がする。
だから、ぬかるみの路も街灯も暗闇に光る晨星も悉く私の心中に投影かつ共鳴してくれているようでならない。
己の心が佛の心を宿してものを観るといったらよいと思う。
日中ではなかなかこのような経験はできないだろうと思う。
手持ちのラジオからは深夜便が流れている。
アナウンサーの声が目の前で語りかけているように聞こえてならない。
一見、日常の世界を離れているようであるが、決してそうでない。
御本佛の慈悲に導かれて浄土の世界を体験させていただいているものと感じている。
存在するあらゆるものとの一如とまでは(凡佛一如)いかないが、心の修養のためには貴重な体験であると確信している。
法華経の世界は、この無限なる人間の心の本質を伝えようとしているものである。
悩み、迷いだらけの私にこのひとときがどれ程救いになっているか知れない。

風の色(三十七)
2022.05.15

風の色(三十七)
つい先日まで、何故か心境の変化であろう。
朝の勤行前に、足の向くまま散歩していた。
五時半~六時に始める朝勤に間に合うためには四時半には起きなければならない。
夜明け前の冷気に身がしまるのを感じながら駅前にさしかかった時、数人のご婦人がビニール袋と小さな箒を持ち無言で清掃されている。
別な方は、路上に投げ出されている自転車を駐輪場に運んで整頓されている。
また、別な日には、お一人のご婦人が、公園に通じる大通りの歩道を清掃されていた。
薄暗い中で見たこのような光景に自然に掌を合わせずにおれなかった。
駅前が普段からきれいになっていることを改めて深く心に刻むと同時に気が付かなかった自分を恥じもした。
このような夜も明けない暗い中で黙々と清行に励んでいることなど殆どの方々が知らないでいると思う。
そこには単なろボランティア活動を越えた布施行の一分である身施(しんせ)を実践されているのである。
身施とは、身をもって仕事をさせて頂き、それを心から喜んで行うことである。
勿論その報いなどを求めない清い心を指していろものである。
ご本佛様のはからいか、この早朝の散歩からこうした尊いお姿を拝すろことができたことで、この娑婆国土も浄土の中に包まれていることを体験させて頂いた。
日蓮聖人は「佛道とは人の振る舞いにて候」と示されている。
身施も大切な振る舞いである。
短い間ではあったが、爽やかな早朝の日々を頂いたことをご本佛様に感謝している。
そして改めて、心向き一つで人の振る舞いが決まることを学ばせて頂いた。

風の色(三十六)
2022.05.08

風の色(三十六) 
最近、何時とはなしに心の中でこんなことを呟いている。
『今、おまえは、人生の中で何か心の中に大切な忘れ物をしていないか』と。
いつものように朝勤を終えて部屋に戻り、着替えをしていろ時に、何故か懐かしい師父の姿が思い浮かんだ。
私が幼い頃のことであろ。
今は亡き師父が、山菜採りのためによく営林署のトロッコで出かけていた。
帰ってくると必ず山菜以外のものを手にしていた。
それは道すがら周辺に捨てられた金具のようなもので、ネジとかボルトといった機械類の部品のようなものが多かったが、その中で特に珍しい大きな健があった。
まるでこれを宝物のように大切に磨いてしまっていた。
今も物置の奥の引き出しに格納されていると思うが、当時は、高邁で厳格な師父の姿からは想像もできず、何となく私の童心に繁がっているようで妙な気持ちだったことを覚えている。
何も役立たないものなのにどうして集めていたのか未だもってわからない。
しかし、いつかきっと役に立つ大切なものと信じていたのかも知れない。
ところで、私に『何か忘れ物をしていないか』と、問うその心の主は果たして誰か、その心の主に出会えばきっと忘れ物の箱の中にある見事な宝物を見せて呉れるに違いないと思った。
そして、その箱を開ける鍵こそ私の生き方の中で見つけなければならないことを。
法華経には、存在する総てのものは、一つとして役立たないものは無いと説いている。
今、日頃から心の主を訪ねていない自分を見つめている。