風の色
- 祈祷 / 高校受験 : 岩手県奥州市
- 2021.10.22
【過去事例】祈祷依頼
受験生とご両親で来寺されました
高校受験の合格祈願をしました
祈願木札とお守りを授けました
祈祷 / 高校受験 : 岩手県奥州市
- 人生相談 / 墓地の移動 : 岩手県奥州市
- 2021.10.21
【過去事例】人生相談依頼
先々代からの部落墓地にある墓石を移動したいとの相談でした
お参りに行くのが遠く、大変になったと言うことでした
墓地の移動方法など細かくご説明しました
80代女性からの依頼でした
人生相談 / 墓地の移動 : 岩手県奥州市
- ペット納骨 / 猫(シーズー) : 岩手県奥州市
- 2021.10.19
【過去事例】ペット供養依頼
血液の病気でした
10年の歳月を色々とお話し頂きました
沢山のペットフードを持参されて法要を致しました
50代女性からの依頼でした
ペット納骨 / 猫(シーズー) : 岩手県奥州市
- 水子供養 / 堕胎 : 岩手県一関市
- 2021.10.18
【過去事例】水子供養
不倫関係から授かった子供でした
その後、精神的にも不安定な時期が続き、供養を申し込まれました
30代女性からの依頼でした
水子供養 / 堕胎 : 岩手県一関市
- 風の色(十)
- 2021.10.17
風の色(十)
ここ数年、狭い境内ながら所々に紫陽花が色とりどりに咲くようになった。
朝勤の後、境内を歩いていると、その上をうねるように小さな蝶が戯れている。
お題目の余韻が体内から抜けていないのだろうか。
不思議というか、梅雨時の雨上がりに僅かな木漏れ日がさす風光にこちらの心が和む。
蝶や紫陽花に聞くべくもないが、兎に角、こちらの心が向こうから伝わってくる感じがするのである。
その風光にしばし時を忘れている。
あるがままに、妙法の響きとしか言いようがない。
抽象的な言葉でしか表現できなくて残念に思うが、それぞれの命が大きなはからい(久遠の本佛)の中に生かされていることだけは事実である。
拙抄「風の色」をお届けして早くも二年の歳月になろうとしている。
序でも書いたようにあらゆる命が不断に生かされていることへの永遠なる問いかけである。
どの道、今の私にとっては二足の草鞋だが、この現実に否定も肯定もしない。
教職も僧職も程よくバランスを保っていると思う。
様々な視点を持てることが現実を知る上で多いに役立っているからである。
しかし、私の問いは仕事を離れて裸の自分になった時、真に支えとなるものに出会うことではないかと思っている。
何時も、一凡夫としての修行に身を入れよとの声が遥か遠くから聞こえてる。
素直に心の耳を澄まして聞くしかない
- 祈祷 / 虫封じ : 岩手県奥州市
- 2021.10.16
【過去事例】祈祷依頼
二歳になる子供の夜泣きが止まらなく困っておりました
虫封じの祈祷を致しました
30代女性からの依頼でした
祈祷 / 虫封じ : 岩手県奥州市※豆知識
古来から、夜泣きは「疳(かん)の虫」のせいとされていました
「かんしゃくを起こして泣く」という謂われと聞いております
大人になってから「虫の居所が悪い」というのは「疳の虫」の名残だとか
夜泣きの原因を、姑さんの手前、嫁のせいでもなく、子供のせいでもなく、虫のせいにしたのも先人の智恵かもしれません
かんしゃくが起きやすい、落ち着きがない子供達へご祈祷することも多いです
- 人生相談 / 夫婦関係 : 岩手県奥州市
- 2021.10.14
【過去事例】人生相談依頼
夫の退職後数年経って、全く会話がなくなりました
いつもイライラしている様にも感じます
今まで、尽くしてきたつもりですが、疲れてしまいました
私はどうしたら宜しいでしょうか・・・
相談後、夫婦関係の未来について運命鑑定致しました
60代女性からの依頼でした
人生相談 / 夫婦関係 : 岩手県奥州市
- お会式法要
- 2021.10.13
本年もお会式法要を納めることが出来ましたこと感謝致します
妙法寺のお会式と言えば「紅白リンゴ」と、長寿の御利益「千粒団子」ですね
各家庭にお持ち帰り頂いた、紅白リンゴ、紅白饅頭、紅白の千粒団子、4種のお餅、ゆっくり味わって食べて下さいませ
参加された皆様、自宅で手を会わされた皆様、本当にありがとう御座いました
- お会式準備
- 2021.10.12
本日は明日のお会式に向けて檀家さんと大掃除と法要準備をしました
1年の汚れを落とし、新たな気持ちで、明日10月13日お会式法要を厳修します
ご参加の皆様ありがとう御座いました※豆知識
日蓮聖人ご入滅は、弘安5年(1282)10月13日です。
全国日蓮宗の寺院では、一年で一番大切な行事として、お会式法要を営みます
- 風の色(九)
- 2021.10.10
風の色(九)
私が最初に憧れた僧侶像といえば大袈裟だか、学生時代に言葉に尽くせない程お世話になった長運寺の御前様だった。
しぐさや言葉遣いも洒脱でその身全体が清楚で、特に頭面をきれいにされていたところが印象に残っている。
「まず僧侶の姿は頭面にあり」とまで思ったほどである。
或る日、御前様の曰く「頭を丸めて僧衣をまとえば誰でも僧侶と見るが、誰もが着る普段着の姿のままでも僧に見られるようにならなければ本物でない」と。
さすがは御前様の云われること。当時、有髪姿だった私はこの言葉どおりに生きることを真剣に心に誓ったつもりだったが、心の隅にどこか自分に都合の好い理屈でごまかしているような気がしていたのも事実であった。
卒業後、田舎の教師になっても、このことにこだわり続けて十数年経ってからのことである。
縁あって埼玉県にある布教養成所に入ることになった。
そこの化主である日蓮宗の布教師の第一人者であり、私の心の目を開かしめた最初の師である石川泰道先生の謦咳に接する機会に恵まれ、見事に前述の観念戯論が吹き飛ばされた。
師の曰く「殆どの僧侶は頭面に剃刀を当てるのが普通であるが、現今、果たして心に剃刀を当てる僧侶はありやいなや」と。
この時も有髪だった私は、この言葉を聞くや一念発起。
理屈だけが先立ち佛道への誓いは遠く心にまで届かない自分、まして頭面にさえも当てることが出来ないのが情け無く思い、帰山して直ぐ床屋さんへ飛び込んだ。
ようやく三回目にして頭面がきれいに丸くなった。
佛道はまず姿や形から入り、心に納まってそこから再び外に顕れる。
御前様の真意に一歩近づけたことに感涙一滴。