風の色
- 明日は星祭・幣束祭です
- 2021.12.21
毎年、冬至に行われる本年最後の法要となります
今年の冬至は12月22日です
星祭りとは、一年ごとに巡ってくる運命を左右する星を供養し、個人の一年間の幸福を祈り、災いを除く法要です
幣束祭とは、新年を迎えるために新しい幣束に魂入れをし、家内安全を祈る法要です■星祭りの起源
中国で、旅の高僧が貧しい村人達から精一杯のもてなしをしていただいた。
その心遣いに感動した僧が、村が豊かになるようにひとつの秘法を授けた。
冬至の日の夜明けに、空に太陽と月と星(三光)が同時に登っている一瞬を狙って報恩の祈りを捧げれば、望むものが手に入るというものだった。
村人達は高僧の言いつけ通りに祭りを実行し、富を得てその後永く栄えたと言われています
冬至に行う星祭りのルーツです
- 風の色(十八)
- 2021.12.19
風の色(十八)
先日、何気無しに月刊誌の広告欄に目が止まった。
ある佛教系大学の広告である。
『ある経験を、どのように受けとめるか。宗教というのは、受けとめ方の勉強だと思います。』とあった。
これを見て懐かしい想い出が蘇ってきた。
約三十年前の春も今頃だったと思う。
最初の赴任校である久慈高校に勤務して二年目、不摂生が原因で軽い胃潰瘍におかされた。
とは申せ何も咽喉を通らず下宿で一人静かに病臥している間かなり心身共に辛い日々が続いた。
しかし、唯一の慰めは枕元のラジオであった。
ある日の朝、七時半過ぎにNHK第二放送の古典講座「死にいたる病」(キェルケゴール著)を聴いて深い感動のあまり涙で枕を濡らした時の経験である。
その時率直に感じたのは、キリスト教とか佛教という観念的な見方にとらわれていた自分自身を恥じたし、そのようなものを遥かに越えた人間存在の根本にかかわる「汝との出会い」が確実に存在するということだった。
佛法では、縁起の法といって何事も因と縁によって成り立つことを説いている。
病気を因とすればラジオ放送は縁となり、「汝との出会い」に結びついていく。
縁も大切だが、就中、因の尊さを身に沁て感じた。
誰しも病気を苦とするのが普通、しかし、これをご本佛の思し召しと悟ればこれ程の幸せはない。
病気が因となり尊い「汝」の存在に出会う事ができたとすれば、まさに病気大菩薩様である。
それも病気に限らず、むしろ逆境の時こそ試されるように思う。
何時も己が心に向かって、貴方は《どのように受けとめますか?》と
- 幣束作成
- 2021.12.16
12月は新年を迎える準備に追われます
先代より引き継いだ「幣束」をコツコツ作り続けています
さて、この「幣束」について、よく質問を受けます
新年に飾る幣束って何ですか?
皆さんは、神社で白い紙飾りを見たことがありませんか
それを「幣束」(へいそく)と言います
では、どうして神社ではなく、お寺で幣束があるのか?
それは、日蓮宗の開祖である日連聖人が神道の秘伝を学び、幣束を伝えたと言われています
その伝承を守り、本宗では幣束を作成します「幣束」は神仏への捧げものであり、神仏そのものです
神仏が集まる幣束は、結界(聖域)となります
年末に新しい結界を張り、神仏を招き佳き年を迎えましょう■幣束の起源
古代においては、神仏に献上する最上の捧げものは絹布で、これを上位の神仏へ捧げ、中位の神仏には麻布、下位の神仏には木綿を捧げたようです。
いずれも素手で献上するには畏れ多いとして青竹に挟んで献上しました。
それを「フトミテクラ」と呼んだがそれがやがて儀式化され、木綿(ゆう・樹皮を細かく裂いたもの)や絹糸の太巻きを青竹に挟むようになり、さらに後には、和紙が使われるようになったと考えられます。
■日蓮宗の幣束伝承
日蓮宗加行所(大荒行堂)にて、幣束の切り方を、口伝により相伝されます
「幣束相承」と言われ、門外不出の秘法なのです
- 風の色(十七)
- 2021.12.12
風の色(十七)
私は、しばしば旧い友から「あの人は変わった」と聞かされる。
自分では何も気がついていない筈なのだが、他人から見ればやはり変わったと映るらしい。
たまに幼い頃の夢を見る。
現に目を醒ましてみると、それは何時も決まって自分の姿がみすぼらしく、とても哀しく感じられるのである。
目醒めの暗さは今に始まったことではない。
それはそれで一生涯の付き合いと心得ている。
その要因を突き詰めたことはないが、思えば幼児期なのかも知れない。
余程得体のしれないものから抑圧されていたに違いない。
その得体の知れないものとは必ずしも厳格な師父とは限らない。
厳格な師父に似た家と言えば、当時ならザラにあったことで、むしろ、お寺という宿命的な環境の総てなのかも。
兎に角そこを離れては自己の存在がないという抑圧だろうと思う。
早朝、未だ暗い本堂へ向かう。
未明の夢が胸元から離れず一緒に歩いている。
勤行が終わるころには東の窓格子から無量の日の光りが差しかける。
たなびく香の紫雲に別れを告げて本堂を去る頃には、未明の夢は伴うこともなく居間に戻る。
どちらが本当の自己なのかと問うている。
例えば、私の変わったと見える姿は、後の部分だろう。
しかし、前の部分はなかなか見えないし見せない部分である。
所が、正直に言えば、青年期のころから見せない部分で素直に生きてみたいと必至だった。
しかし、所詮、中途半端でしかなかった。
また、これが私の宿命(定め)と言い聞かせて今日まできたのも事実である。
これを素直に受けて、この両面を行ったり来たりするのが人生であると最近思うようになった。
- 令和3年度歳末行脚
- 2021.12.09
本年は遠野市で歳末助け合いの行脚でした
小雨の降る中、また残雪の中、太鼓とお題目の祈りを込めました
浄財は遠野市へ寄付致しました
- 風の色(十六)
- 2021.12.05
風の色(十六)
かつて、私が尊敬する故松生先生は「もし人類のヘソの緒を引いたとしたら、そこから総てのものが出てくる」と、言われた。
その至言の指すところ、そのヘソの緒に連なる糸こそ尊い“いのち”に他ならないことが漸く氷解できた。
人類総てが、過去から現在そして未来に至るまでこの不易な糸の道を歩んできた点、まさに“一筋の道”に連なっていると言える。
それは、自ら求めて得られるという道ではなく、すでに久遠に頂いている有り難い道なのである。
その意味でもともと浄土の世界と言ってよい。
ところが、我々はその道を忍難の娑婆としか見ない。でも、“いのち”そのものから観ればはやはり浄土なのである。
法華経は、娑婆世界をもともと常寂光土という理想社会と説いている。
当然そこに住む凡夫である我々は、浄土に包まれ、一人も例外なく本佛〈大慈悲心〉の意(こころ)を内包していることになる。
よく、自暴自棄になった若者が「頼みもしないのに親が勝手に生んで」と、言って、まるで自分が虫ケラ同然の不幸者と見做して、親を憎み哀れな人生を呪う姿に出会う時がある。
もとより人間の存在は、この世にとって尊く必要な存在として前述の“いのち”に連なっているものである。
我々は、この大前提を忘れずに伝えていかなければ前の不幸を繰り返すことになる。
例えば、母親が言葉も知らない緑児に向かっていとおしく語りかける姿は、まさに本佛の意を内包していなくては出来ない行為であり、向い合う緑児は、その行為によってはじめて尊く必要な存在になる。
母子に限らず相互に尊く必要な存在が真の浄土ではあるまいか
- ペット納骨 / 兎 : 岩手県奥州市
- 2021.12.03
【過去事例】ペット供養依頼
高校時代に一緒に暮らした思い出を話してくれました
家族でお別れをしました
10代女性からの依頼でした
ペット納骨 / 猫(雑種) : 岩手県奥州市
- 水子供養 / 死産 : 岩手県奥州市
- 2021.12.02
【過去事例】水子供養
第3子目を死産で無くしました
辛くて言葉になりません
その様に話された家族は皆でお参りに来ました
家族全員で焼香しました
30代女性からの依頼でした
水子供養 / 死産 : 岩手県奥州市
- 祈祷 / 渡航安全 : 宮城県利府町
- 2021.11.30
【過去事例】祈祷依頼
海外へ長期出張とのことで、渡航安全と業務達成の祈祷をしました
初海外とのことで大変不安な毎日を過ごされていました
お守りを授けました
40代男性からの依頼でした
祈祷 / 渡航安全 : 宮城県利府町
- 風の色(十五)
- 2021.11.28
風の色(十五)
実は、青年期の糸と言っても自分で紡いだ糸ではなく、そのよってきたる根源は自分の生まれる以前より更に遠く父母未生にもさかのぼるかけがいのないものではないかと、今頃になってそのことに気がついてきた。
いや、今頃とは笑止千万、お陰様で教えて頂いたというべきだろう。
過去遠々の積り積もった善業や悪業が、無限の時を経て現在の自己につながっていることは自明のことである。
その間、どう転ぼうが起きようがそこには一貫して不変なものが流れている。
それが“いのち”(ご本佛から授かった尊い命)である。
その“いのち”の存在に係わり、問いかけることが漸くできたと言える。
それは、単なる観念的なものでなく信仰という体験が育んでくれた感性しかないように思う。
自己というのが自分だけの存在でなく“いのち”との関係ではじめて成り立っていることがおぼろげながらわかりかけてきた。
そして、その心の正体が、見えざる糸から繰り出されてくるご本佛のはたらきであることも確かだ。
幼いとき経本を涙で濡らしたり、師父と倶に歩いた寒修行、そして撃鼓行脚してきた体験から、何故あのように無心に大きな声でお経やお題目を唱えられるだろうかと考える時、やはりそれは“いのち”との感応なくしては唱え難いものだからである。
発菩提心にせよ菩薩行にせよ、この“いのち”との感応あればこそ価値あることを、釈尊が法華経の寶塔品の中で「皆是真実」と言わしめたものである。
終生、前述のかけがえのないものを見つめつつ生きねばと思うこの頃である