風の色

書家、草を刈る
2022.08.09


書道家でありながら、マルチな才能を持つ松本先生
ひとつの道を究めた先生でありながら、常に庶民的な目線を大切にしております
そんな松本先生が、小学生の息子さんとお盆前に、境内の草刈りをお手伝いしてくれました
書道の払いの如く綺麗に草を払っておりました
御陰様で草がボウボウだった駐車場が綺麗になりました
本当に助かりました。ありがとう御座いました。
草刈りスタイルも地下足袋に法被と粋でした!
一緒に来ていた息子さんは、来月、仕事で遠方にいく先生と一緒に新幹線に乗るために、一生懸命お手伝いをしていました
小さなカラダに鞭を打ち、顔が真っ赤に日焼けするくらい頑張っていました
そんな姿を仏様はきっと見ていて、きっとその願いを叶えてくれることでしょう

松勢工房(書家・松本先生)

https://matsuseikoubou.com/

久遠のみち(三)
2022.08.07

久遠のみち(三)
前回の、そもそも「佛(ほとけ)とは一体何なのか?」について考えて見たい。
因みに、有名な兼好法師の「徒然草」(十四世紀の作品)の最後の第二四三段は、作者が八歳の頃、佛(ほとけ)とはいかなるものかを父に問いつめた日を思い起こして書き記したものである。
原文を要訳すると次のようである。
『八つの時、父に「佛とはどのようなものですか」と聞いたら父は「佛とは人間が成ったもの」と。
では「人間はどうやって佛に成ったのですか」と聞いたら、父は「佛の教えによって成った」と。
では「それを教えてくれた佛を何ものが教えたのですか」と。
「それも前の佛の教えによって成った」と。
「では、その教えを最初に教えた佛とはどのような佛なのですか」と言ったら、父は「空から降ったものやら、大地より湧いたものやら」と言って笑った。
父は「ついに問いつめられて答えられなくなった」と。人々に語って面白がった』
前々からこの段について考えさせられものがあった。
既に佛道修行を経験済みの作者ではあるが、何故佛についての素朴な疑問を書き綴ったのかである。
作者は、観念的な佛は幾らでも描けるが、自己の現実生活の中で真に納得のいく佛の在り方を問い続けていたのではないかと、私なりに考えている。
所で、今の大人が子供から同じことを聞かれたらどうだろうかと考えて見た。
多分、似たり寄ったりか、もしくは形になっている佛像やお釈迦さんを指して答えるのではないかと思う。
でも「佛とは一体なんですか」というそのものの真相を聞かれたらやはり困惑してしまいそうである。
現実生活の中で、真にこれが「佛なんだと」思える体験が無ければ答えようがないと思う。
佛の実体は、自分とは別個のものではなく自分の心の中に住みついて時々表に出たり引っ込んだりしているのではなかろうか。

水子供養 / 流産 : 岩手県奥州市
2022.08.05

【過去事例】水子供養
2人目の子供が流産でした
暫く鬱々することが多く、悩んでいたところ、供養した方が良いと母親から言われたそうです
供養が終わると、涙を流し、前向きに歩く決意をしていました
20代女性からの依頼でした
水子供養 / 流産 : 岩手県奥州市

祈祷 / 遺品魂抜き : 岩手県奥州市
2022.08.03

【過去事例】祈祷依頼
実家取り壊しのため、亡き母親の遺品魂抜きを依頼されました
子供達は関東圏に住まいがあり、地元には戻らないのことでした
取り壊し前に家屋に赴き、遺品の抜魂と長年住んでいた家屋へ感謝のお経を上げてきました
60代男性からの依頼でした
祈祷 / 遺品魂抜き : 岩手県奥州市

久遠のみち(二)
2022.07.31

久遠のみち(二)
本来佛教は、現実に生きて悩み苦しむ我々衆生の心の闇(人生苦)を解放する事(救いの道)をねらいとして釈尊によって説き明かされたものである。
ところが、残念ながら今日の佛教は、その本意とは逆に抹香臭いとか、単に祖先を弔う時の教えであるかのように認識されている。
要するに現実の生活とは無縁如きに思われているのである。
では一体その原因は何処にあるのかと問い糺せば、前回にも述べたように「葬式佛教でこと足れり」の寺院やそこに居座っている僧侶が一向に佛教の本意を省みないところにある。
又、一般の衆生も大部分は、それを義(よし)とまではしなくとも「僧侶はその仕事(?)でこと足れり」を半ば認めているのであるから、尚のこと佛教は、苔や埃で覆われた磨かざる金剛石のように現実に何も役に立たないものになっているのである。
一方、新興宗教の狙いは、そうした葬式佛教の矛盾を取り込みつつ、現実生活で悩乱する無知無防備の人心の隙間に入り込んで、現世利益の信心を奨めたから瞬く間に老若男女こぞって入信し、膨大な教団を作ってしまった。
既成の佛教教団は伝統的な檀家制度で何とか命脈を保ち、新興宗教は、正当な教義を欠いても教祖のカリスマ性によって人心をかどわかして教団の維持を計っているが、どちらも佛教の本意からはずれた自家撞着の誹りを免れない。
もし今後ともこのような現象が続くのであれば、永遠にこの世に真の浄土は顕現しないことになるが、誰一人これを望むものはいない筈である。
従って、佛教の本意をしっかりと見極めて現実に活かさない限り、尊い人間としてこの世に生を享けた意味がなく、宝(金剛石)の持ち腐れになってしまう。
では「佛教の本意とは何か?」―そもそも「佛(ほとけ)とは一体何なのか?」
次回以降からの中心となるテーマである。        

人生相談 / 夫婦関係 : 岩手県奥州市
2022.07.29

【過去事例】人生相談依頼
妊婦中に夫の浮気が発覚して、体調が不安定になりました
子供嫌いの夫です
これから生まれてくる子供のことも考え、離婚を考えています
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夫婦関係について運命鑑定を行いました
30代女性からの依頼でした
人生相談 / 夫婦関係 : 岩手県奥州市

ペット納骨 / 猫(雑種) : 岩手県奥州市
2022.07.26

【過去事例】ペット供養依頼
20年間お骨と共に暮らしていました
後期高齢者となり、先のことを考え、ペットを埋葬しに行きました
「これで安心して私も行けると」笑顔で帰られました
70代女性からの依頼でした
ペット納骨 / 猫(雑種) : 岩手県奥州市

久遠のみち(一)
2022.07.24

久遠のみち(一)
「久遠のみち」なる久遠について、日蓮大聖人ははたらかさず、つくろわず、もとのまま、と仰っておられる。
しかし、こう説明されても即座にピンとこない。
いったい何が働いていないのか、何を繕わないのか、何がもとの侭なのか、その‘何’の実体がわからない。
私の理解の中では、これを佛の真実の相(すがた)と考えている。
佛というと世間一般では、死人をさしていう。
だから人間は誰でも死ねば必ず佛にされてしまう。
ところで、佛教とは、当たり前のことだが佛の教えのことをさしている。
今から二千数百年前、釈尊が八十年の生涯をとおして覚られた内容を多くの弟子たちや民衆に向かって説法された教えのすべてである。
かりに、死んだ人を佛とすれば釈尊は、すべてあの世に逝った佛(いわゆる死人)たちの為に説いたことになる。
いわば佛を死人と見れば葬式=佛教ということになり、どこかおかしいことになる・・・
佛の本願(ねがい)は、誰もが佛の意(こころ)を持って佛のように生きて理想とする浄土をこの現実に顕して欲しいのである。
その担い手は、現実に生きている人間以外誰がその佛国土を築きあげることができるだろうか。
法華経を生きとおした宮沢賢治の描いた理想も同じであった。
日蓮大聖人は、釈尊の教えの真意(法華経)に迫って得た佛とは、現実に生きている我々衆生そのものであることを断言された。
別な表現でいえば我々は佛の実物ということになる。
まず世間一般でいう佛の見方を変えることによって、はじめて久遠の中身がおぼろげながら見えてくるような気がする。

Tシャツ奉納
2022.07.22


先日、Tシャツの奉納がありました
昨年亡くなられたおばあちゃんが書き残した「書」をTシャツにして来寺されました
白と黒に2色のTシャツを奉納されていきました
デザイン会社らしい、粋な行動に心を打たれました
きっとおばあちゃんも喜んでいると思います

★Tシャツ制作
STRAWK様
https://strawk.jp/

ペット納骨 / 犬(柴犬) : 岩手県奥州市
2022.07.20

【過去事例】ペット供養依頼
17才で老衰で亡くなられた柴犬の供養をしました
法要後少しお話をしました
「これで最後のペットとなります」
「可愛いから飼いたいけど、最後まで世話できないから、無責任なことは出来ない」と話していました
毎年秋彼岸に夫婦でお参りに来ております
70代男性からの依頼でした
ペット納骨 / 犬(柴犬) : 岩手県奥州市