風の色

お会式の準備
2022.10.12


本日は明日のお会式に向けて檀家さんと大掃除と法要準備をします
1年の汚れを落とし、新たな気持ちで、10月13日お会式法要を行います
※豆知識
日蓮聖人ご入滅は、弘安5年(1282)10月13日です。
全国日蓮宗の寺院では、一年で一番大切な行事として、お会式法要を営みます

久遠のみち(十)
2022.10.09

久遠のみち(十)  
前回、マザーテレサの心の中に潜む神の認識は極めて法華経的だと云ったのは、ひたすら菩薩行(同じ佛性を持つ人間が他を救済する事によって同時に己の佛性をも磨かれていく実践的生活)に勇往邁進していたからである。
さて、彼女にとって「そうせずはにおれない」言動は、いったいどこから生まれたのだろうか。
たとえ路傍で死に逝く人々がいても、彼女は、シスターと共に朝夕の神への祈りの時間だけは欠かすことがなかったという。
その何より大切な祈りの中から育まれた自然にして最も崇高な働きかけでなくて何だろうと、思っている。
神の黙示なのかも知れない。彼女の意思の奥に潜む神秘な世界(久遠本佛)が現実に顕れてくる(救済活動)ためには、どんな高等な哲学も及ばない「信」による祈り以外にないことを示唆している。
その神秘世界の意思を神とも佛とも云っても過言ではない。
云うならば、人間の行い得る最尊の境地を我々に教えている。
日蓮大聖人は、この真理を八万法蔵に及ぶ経典の中から法華経(正しくは妙法蓮華経)こそが神秘世界の意思を説く根本経典であることを認識され、佛性開覚の祈りとして南無妙法蓮華経と唱える至心唱題を説いたのである。
世の中には、この祈りそのものの行為をいとも簡単に呪いの術などと下等な人間がやるものと誤って認識している人が多い。
かつて、宮沢賢治がその真理を深く覚って帰郷し、花巻市内を団扇太鼓を打ちながら御題目を唱えて行脚した時、孤高な修行者とは見ず、気が狂ったとまで評された。
俗世の偏見が知らず知らずに一人歩きしてきたのが今日の社会である。
真剣に耳を傾ける人々が少なくなった。

水子供養 / 流産 : 岩手県奥州市
2022.10.07

【過去事例】水子供養
妊娠3ヵ月で流産でした
落ち込む日々でした
夫婦で供養法要を行いました
30代女性からの依頼でした
水子供養 / 流産 : 岩手県奥州市

祈祷 / 病気平癒 : 岩手県奥州市
2022.10.04

【過去事例】祈祷依頼
脳梗塞で入院している奥さんの早期回復の祈祷でした
リハビリに移る前に来寺されました
70代男性からの依頼でした
祈祷 / 病気平癒 : 岩手県奥州市

久遠のみち(九)
2022.10.02

久遠のみち(九)
かの有名なマザーテレサは、インドのカルカッタで同心のシスターと共に、キリスト教による貧しい人々の救済活動に全霊を傾けた事は周知の事である。
誰も身よりもなく、一人寂しく路傍で死に逝く人々に向かって、彼女は、「あなたは望まれてこの世に生まれてきた」と語りかけその人々の死を看取ってあげる毎日だった。
ある日、飢餓で病弱になり今にも死にそうになってベットに横たわっている子供連れの母親にお弁当を届けるため見舞いに行った。そのお弁当を受け取った母親は、指でそれを半等分し「隣の家にも同じく飢えている親子がいるのであとの半分をあげて欲しい」と彼女に告げたという。
この時、彼女はその母親に「神」を見たという。
これぞ人間が体験しうる至高の境地、感無量の徳光が輝き増したものと想像している。
本来、キリスト教の思想からすれば人間の中に「神」が存在することはない。
むしろ、この考え方は、大乗佛教の思想に近い。彼女が実際に病弱の母親に見たものは「神」であるが、しかし、事実それを「佛」と読み替えて見たとしても我々には何ら違和感がないのも不思議である。
「神=佛」(病弱な母親)に出会えた彼女は救済活動を通じて現実に「神=佛」が存在すると確信し、また、自身、人をして「神=佛」は人類の救済活動を進めるものであることに一層の祈り(信)を深めたと思われる。
ここで言う「神=佛」は、もともと人間の心の中に備わっているものとするのが大乗佛教の中心思想である。
ところで、彼女と病弱の母親の行いは極めて法華経的であり、しかも菩薩の生き方そのものといえまいか。
法華経の方便品に、
「唯(ただ)佛と佛と乃(いま)し能(よ)く諸法(しょほう)の実相(じっそう)を究尽(くじん)したまえり」とある。
彼女とその母親の関係がそのまま法華経の思想に通じてくる。

後藤屋「どら焼き」
2022.09.29


当山で良くお供物に上がる一品です
地元名店の銘菓となります
後藤屋の「どら焼き」はご先祖様、思い出の一品と感じます
お供物選びの参考にどうぞ

後藤屋 どら焼き 小倉あん
後藤屋 岩手県奥州市水沢大町78
https://mugituki.com/

お供えものについて
2022.09.27

近年、お供え物について質問を受けることが多くなりました
「お菓子や果物はご先祖様のことを考えて、選んで下さい」とお話しします
生前好きだったお菓子や果物、または季節の果物などです
生まれ育った郷土菓子もインターネットの普及でご法事に持参される方も増えました


◆お供物として避けて頂きたいものがあります
仏教では無駄な殺生をしないと説かれています
故人が好きだったとは言えども、供物には「肉や魚」などの殺生したものはNGです
また、刺激の強いものもNGです
「にら、らっきょう、ねぎ、にんにく、しょうが」の五辛(ごしん)はお供えできません


今後の「お供物カテゴリー」では、当山で人気のある供物を随時アップしていきます
皆様の参考にして頂きたいと思います

久遠のみち(八)
2022.09.25

久遠のみち(八)
前回、久遠のみちの原点が見える云々……。と記したが、私自身、ものを考える際に基本的には原点を踏まえているつもりである。
しかし、実際にはそれを等閑にしている場合が非常に多い。
そこで、もう一度、確認の為に数回前の「久遠のみち」で触れたー佛とは一体なんぞやーに立ち戻って考えて見たい。
佛とは何か。この単純にして判るようで判らない問いである。
一般的には、死人と直結したり、一方では摩訶不思議な存在として、崇高且つ最尊の超人格をさしている。
しかし、釈尊の覚り全体に照らしてみたら両方とも的はずれといえよう。
佛について予め誤解のないようにお断りしておきたい。
一般的に佛というと人格的なものを賦与する傾向は否めない事実である。
しかし、佛とは何かを理解するためには、佛界というように最初から個人格を超えた広がりの中で捉えるのが分かり易いと思う。
更に、この問いに解答を出すことが、久遠のみちをもっと具体的に明らかにしてくれるからである。
宮沢賢治が法華経や日蓮大聖人の御教えに感得して得た境地、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」は、人間凡夫の理想の生き方が佛を生きることであり、それが人間が求めて止まない究極の幸福と談じたものである。
ここで言う「世界全体が幸福に」が佛界であり、人類共通の理想をさしている。
従って、佛界(全体の幸福)は個々人が所有できるものではないということを前提にして「デクノボー精神」という菩薩行で生き通すことに徹したものである。
個人的には佛には成れないが菩薩として佛を生きる事の幸福を一心に「南無妙法蓮華経」に結んだと言える。
佛(界)の真相は目に見えないが、例外なく総ての生きとし生けるものの中に住み給うことだけは事実である

9月23日(お中日)はペット慰霊祭
2022.09.22


月23日はペット慰霊祭です
亡きペット(家族)に手を合わせましょう
『言葉は通じ合わなくとも心は通じ合ったあの日、あの時の感謝の気持ちを伝えましょう』
※宗旨・宗派を問いません

秋彼岸
2022.09.20


秋のお彼岸です
感謝の心をもって、ご先祖様に追善供養の誠をささげましょう
本年は9月20日(火)から9月26日(月)となります