風の色
- 風の色(二十)
- 2022.01.09
風の色(二十)
前の月で自己錬磨などと偉そうに書いてしまったが、それは、風雪に耐えて尚見事に花を咲かせる老梅のいのちにならいたい気持からであった。
宮本武蔵の「五輪書」(水の巻)に、『千日の稽古を鍛とし、萬日の稽古を練とす』とある。
まして錬磨となれば、突き詰めて知れば知るほど遠い別世界のお話ということになる。
しかし、老梅が修行して美しい花を咲かせているとは誰も信じない。
ただ、自然の摂理に従っているまでのことであるが、その姿を己が理想とすれば錬磨(不断の努力)なくしてありえまいと思うからである。
さて、武蔵に限らず幕末の吉田松陰にしても、自己錬磨に生涯をかけることができたのは、常に、天(宇宙の摂理=神佛=汝)を拠り所にしていたからといえる。
多くの高僧や先哲の人生観に共通するものは、天の命ずるものという認識であったと思う。
佛教も凡夫が住むこの世は、佛天(本佛)が与えた修行の場、まさに娑婆〈忍土〉そのものと説く。
日常生活が鍛練の道場なのだから、一生楽して生きようとしてもそうはいかないようにできている。………
ここが凡夫の生きる原点で尊い。
一休宗純の歌に、
「年ごとに 咲くや吉野の山桜 根を割りて見よ そのありかを」
我々凡人の目には見えない美しい花のありか、そのありかをどんなに捜しても見当らない。
所詮、そのありかは「美しいと観ずる己が心中にあり」としたもの。
拙文「風の色」も二十数回になるがその中で絶えず見えざる音色に耳を傾けてきたつもりである。
それも佛天との係りの中でこそ磨かせて頂いたといえる。