風の色
- 久遠のみち(三)
- 2022.08.07
久遠のみち(三)
前回の、そもそも「佛(ほとけ)とは一体何なのか?」について考えて見たい。
因みに、有名な兼好法師の「徒然草」(十四世紀の作品)の最後の第二四三段は、作者が八歳の頃、佛(ほとけ)とはいかなるものかを父に問いつめた日を思い起こして書き記したものである。
原文を要訳すると次のようである。
『八つの時、父に「佛とはどのようなものですか」と聞いたら父は「佛とは人間が成ったもの」と。
では「人間はどうやって佛に成ったのですか」と聞いたら、父は「佛の教えによって成った」と。
では「それを教えてくれた佛を何ものが教えたのですか」と。
「それも前の佛の教えによって成った」と。
「では、その教えを最初に教えた佛とはどのような佛なのですか」と言ったら、父は「空から降ったものやら、大地より湧いたものやら」と言って笑った。
父は「ついに問いつめられて答えられなくなった」と。人々に語って面白がった』
前々からこの段について考えさせられものがあった。
既に佛道修行を経験済みの作者ではあるが、何故佛についての素朴な疑問を書き綴ったのかである。
作者は、観念的な佛は幾らでも描けるが、自己の現実生活の中で真に納得のいく佛の在り方を問い続けていたのではないかと、私なりに考えている。
所で、今の大人が子供から同じことを聞かれたらどうだろうかと考えて見た。
多分、似たり寄ったりか、もしくは形になっている佛像やお釈迦さんを指して答えるのではないかと思う。
でも「佛とは一体なんですか」というそのものの真相を聞かれたらやはり困惑してしまいそうである。
現実生活の中で、真にこれが「佛なんだと」思える体験が無ければ答えようがないと思う。
佛の実体は、自分とは別個のものではなく自分の心の中に住みついて時々表に出たり引っ込んだりしているのではなかろうか。