風の色

風の色(四十三)
2022.07.03

風の色(四十三)
この「風の色」は、五年前、某高校の文化講演会での演題に端を発している。
この講演の内容は皆様にお届けしているこの「伝道はがき」のものとは全く異なっているが、私にとっては、同義別語をもってお伝えしてきた積もりである。
今このテーマの終焉近きに当たり、何故「風の色」という題としたのかを再びその源に帰って「テーマ」の持つ意味を考えている。
抑も「風の色」と題した発端は、人間が自らの我欲に縛られて本来存在している真の自己(佛性を持っている存在)に出会わないでいる事への問いそのものだった。
本来大乗佛教でいう佛性は、この世に存在する我々凡人は勿論のこと総てのものに宿っている大慈悲心そのものであり、自他彼此の区別なく愛と慈しみを無条件で捧げたいとしている生命活動そのものと言える(森羅万象が持つ理想とする幸福観)。
端的にいえば植物と動物との生命活動はそれぞれ別々の役割りを持ちながら共に酸素と二酸化炭素との依存関係無くしては共存出来ないと同様に、自然界は云うに及ばず我々人間同志も例外なくこのような生命活動を理想と願いつつ生きようとしているのは、佛性が我々の心に内包している何よりの証拠であるといえる。
しかし、我々が住むこの現実を見れば、寂しく悲しくそして苦しみ悩みが尽きない煩悩の山といえよう。
隠れているというよりは眠っているのかも知れない。
日蓮大聖人は、このような煩悩の山に分け入って珠玉の佛性を呼び覚ます為の一大良薬としてお題目の信仰を説き顕された。