風の色

風の色(四十一)
2022.06.19

風の色(四十一)
二足の草鞋(わらじ)もいよいよ一足になる。
履き慣れた一方の草鞋(わらじ)(教職)には言葉に尽くせないほど世話になった。
価値のある草鞋(わらじ)であったことを感謝している。
元々底がすれ切れている草鞋(わらじ)だが、残されたこの一足(僧職)で生涯歩くことになると思うと正直云って心細く先が不安でならない。
脳裏に描いているとおりの道を歩くことならいざ知らず、全く思いもかけない道を歩くとなれば余計である。
では、何故今この道を選択をしたのか、自分なりに答えねばと思っている。
そもそも私の思考の根底には「今、何故仏教か」があった。
お釈迦様が説いた八万四千の法門や教説は無量に等しいものだが、要をもって云えば、この世に生きる人間を佛の道に入らしめんとの願い(本願)に尽きると云ってよい。
特にも法華経の説く世界は、森羅万象ことごとく佛の姿でなければ、この世は浄土であり得ないのである。
ところが、私たちの住んでいる世間一般は、穢土と云って人間の悲しみや苦悩は尽きないどころか、天災まで起こって生き地獄のような生活の中、ほんの刹那的な喜びで心を癒しているのが現実と云えまいか。
このようなことの繰り返しでは何時になっても浄土などこの世に顕現できないのは当然である。
しかし、法華経は、本質的にはこの世はありのままの姿で浄土であると説いている。
それは、あくまで凡夫の心が穢土と観るだけで、佛の心から観れば常住不変の楽土なのである。
してみれば、どのようにすれば佛の心で観れるのかを皆さんと倶に歩んでいく価値があるものと確信し、今こそ、微力ながら私なりにその道に足を踏み入れる時と判断した所以である