風の色

風の色(十五)
2021.11.28

風の色(十五)
実は、青年期の糸と言っても自分で紡いだ糸ではなく、そのよってきたる根源は自分の生まれる以前より更に遠く父母未生にもさかのぼるかけがいのないものではないかと、今頃になってそのことに気がついてきた。
いや、今頃とは笑止千万、お陰様で教えて頂いたというべきだろう。
過去遠々の積り積もった善業や悪業が、無限の時を経て現在の自己につながっていることは自明のことである。
その間、どう転ぼうが起きようがそこには一貫して不変なものが流れている。
それが“いのち”(ご本佛から授かった尊い命)である。
その“いのち”の存在に係わり、問いかけることが漸くできたと言える。
それは、単なる観念的なものでなく信仰という体験が育んでくれた感性しかないように思う。
自己というのが自分だけの存在でなく“いのち”との関係ではじめて成り立っていることがおぼろげながらわかりかけてきた。
そして、その心の正体が、見えざる糸から繰り出されてくるご本佛のはたらきであることも確かだ。
幼いとき経本を涙で濡らしたり、師父と倶に歩いた寒修行、そして撃鼓行脚してきた体験から、何故あのように無心に大きな声でお経やお題目を唱えられるだろうかと考える時、やはりそれは“いのち”との感応なくしては唱え難いものだからである。
発菩提心にせよ菩薩行にせよ、この“いのち”との感応あればこそ価値あることを、釈尊が法華経の寶塔品の中で「皆是真実」と言わしめたものである。
終生、前述のかけがえのないものを見つめつつ生きねばと思うこの頃である