風の色

風の色(十九)
2021.12.26

風の色(十九)
今の時代、人間の命もものの値打ちもマスコミがつくっている。
また、マスコミに乗せられた価値はシャボン玉のように軽くそしてあまりにも消えやすい。
誰もが本当の値打ちを観ようとする心を失ってきたのだろうか。
法華経に『顛倒(てんどう)の衆生』といっているが、まさに本物の値打ちが観えなくなった我々凡夫をさしているものである。
境内に一本しかない老梅がある。
今年は殊のほか色や形も鮮やかに咲いている。
あまり見事な咲きぶりに妙に心がときめいた。
しかし、美しく花を咲かせている幹や枝の表皮は決してみずみずしくない。
むしろ枯れているのである。
しかし、枯れていてもなお咲く花の神秘さを誰が知ろうか。
その命の根元に心を寄せた時にはじめて老梅に親しみを感じ心を通わせることができたのである。
しばし眺めているうちに、この老梅に登って遊んだ頃が目に浮かんだ。
よく師父に、拳骨が飛んできそうな剣幕で叱られたことがある。
私には、どうして梅の木に登っていけないのかわからなかった。
後年になって知り得たことだが日蓮宗では古くから祈祷の儀式に梅の枝を使う慣わしがあり、禍を転じて福となすなど一種の魔除けのような木として尊んだもので、師父の激怒も、またむべなるかなと。
そのような縁を共にしたこの老梅から、今になって命そのものの値打ちを、また外には枯れたと見せても内にははかり知れない命を常に磨いていることも教えられた。
自己錬磨なくては一寸先も観えない。
よく丹精を込めるというが、それは自らの心を値打ちが出るまで耕す(磨く)ことではないかと思う。