風の色

風の色(八)
2021.10.03

風の色(八)
お経を読んでお題目をあげることは、縁が有れば誰でもできることである。
いわば僧侶でなくとも達者な人は沢山いることを知っている。原始佛教以来、聖職者と在俗の区別がはっきりしていたが、現代の社会では概ねその別はなくなってきているようである。
善し悪しは別として、誰でもが平均的というか並列的というか、何故かそんな社会になってしまった。
ひと昔前までは、僧侶もそれなりのプロ意識があってそれに恥じない言動が衆目の一致するところであった。
私が少年の頃に見た高僧の姿があまりにも印象的で、学生時代に将来の自分の姿を見る時に決まってこのことから離れたことがなかった。
一方に理想象を片方ではそれと矛盾する生活に「あれかこれか」の選択にいつも悩んでいだ。
お盆の棚経でのことだった。
小岩に一人住まいの高齢の老夫人は何時でもこぎれいに身支度し私を待っててくれていた。
一緒にお経やお題目を唱えて下さる。
終わると丁寧に蓋付きの湯飲み茶碗で歓待して下さった。
恐縮して身を小さくしていると、「あと何年生かして頂けるか知れない私にとってこうしてご一緒にご本尊にまみえることが何よりも幸せですわ」との恐れ多い言葉に身が引き締まる思いだった。
不思議にも心が休まりいやが上にも佛の大法に導いてくれていることに気がつき、これもお題目の功徳と素直に感謝できた。
勇猛心が涌くというか、この方の真面目な信仰心に恥じない生き方をと心に誓ったものだった。
この時初めて理想が現実の中にいきていることを悟ったような気がした。