風の色

風の色(五)
2021.09.12

風の色(五)
中学に入る頃には、師父もあまり厳しく叱正することもなかったように思う。
自分なりに考えてみると、どうやら長い間積み重ねてきた読経練習の成果やある程度の礼儀作法(所作)の方も師父の慧眼に叶わずともあまり気にならない程度に映っていたに違いない。
何故ならお経が人一倍達者な師父にとって先ず何よりもお経が正確に読めることが、私に対するあらゆる生活面での尺度であったように思うからである。
後年のことであるが、大学三年の夏に身延山に於いて日蓮宗の僧侶にとって欠かすことの出来ない修行の一つである信行道場に入行する時であった。
同行した師父が身延山内の覚林坊の御前様に話されていた事が妙に印象に残っている。
その話とはおよそこのようなものであった。
「何はともあれご本尊に向かって一生懸命にお経とお題目を唱えていれば、その人の佛性(御本佛のはたらき)が呼び覚まされて間違いのない生活態度が備わるものであって、自分の生活態度がどうしても改まらないのはその神髄がわかっていないだけである。……云々」
まさに、有り難き佛法に値い、そして因果の道理、自然譲与とはこのことかと今更ながら師父の奥深い教導に感心している。
何事も魂を入れる時に入れずばの思いだったに相違ない。
今の自分が、多少好い加減なので、きっとこの魂が自分から離れようとしているのである。今の人間社会は、離魂の時代といわれる。果たして真に己の魂に出会っているだろうかと自ら問うている。