風の色

風の色(二)
2021.08.22

私は、何時も心の中で幼少年期に体験した出来事を思い出している。
一種の習性なのかもしれない。それがどのような辛く哀しい出来事であっても心が落ち着いてくるから不思議でならない。
師父の唱えたとおり発音する辛いお経練習に明け暮れた事が、今は楽しい思い出なのである。
途中でひっかかると、経文は見ても読むなという。頻りに、難しい漢字だらけのお経を耳で覚えろといっていた。
その意図する所が漸く五十才を過ぎた今、わかりかけてきた。
唯、無心になって唱える、それだけのことなのであるが、これが中々できない。
法華経の真理は文字では表現できないものである。しかし一方で、言語で伝えられないもの程もどかしいものはないのも事実であるが、師父は、法門を聞く時は、頭で聞かず身体で聞けともいっていた。
別な表現だと、無心で聞くと法門の内容が、皮膚や毛穴を通じて血管に入るようなもので、「そうすればシメタモノダ」と。
頭から入れると入りやすいがすぐに泡みたいに消えて身に留まってくれない。
振り返って童心にとって大切なのは、理屈でなく真心(誠実な心)を伝えてくれる親の存在である。
私は今以て、吾が子にその心を伝え切れなかったことを深く反省している。
さて、誰しも心のアルバムを紐解いたらきっと幼少年期のことが一番楽しい時ではないだろうか。
今の涸れきった胸中に無邪気な童心を投影してはかり知れない命の尊さをかみしめている。
合掌