風の色

風の色(二十五)
2022.02.13

風の色(二十五)
先日のこと、茜色に染まった夕映えにしばし見惚れながら、心の中では、『つまるところ、人生何ぞや』と、問い続けていたが、よくよく考えてみると、青年期のあのもの憂い頃と体験が重なっていることに気がついた。
何時も決まって夕方になると、誰もいない薄暗い本堂の階段に腰掛ながら考えていた。
将来に対する不安、厚い壁のような師父の存在、沙弥(得度出家したばかりの小僧)でありながら、いずれ佛法に仕えて衆生済度の導師として振る舞わなければならないというとてつもない大きな存在に、逃れられない自分の定めを知りすぎたように思っている。
何も出来ない自分が「成るようにしか成らない世の定め」に身をさらし、また何時までも超えることが出来ない存在に向き合っている姿は、丁度、広大な荒野に一人放り出されたようなものだった。
今の「諦めの早さと同時に何事が起こっても後悔しない」という一見無自覚な態度は、前述の体験が自己の性格形成に大きな影響を与えていたと思っている。
私の目を開いてくれた師(水戸黄門の由緒、本山久昌寺貫首石川泰道猊下)は、「所詮、人間誰しも逆境は避けなれないもの、だからその中にあって逆境こそが 自分を育む恩師と悟れ」と、暗闇に迷う自分を導いて下さった。
四十歳を過ぎて、その示すところがようやく判りかけてきた。
「出来ない」とか「越えれない」とか、もともと観念の世界であって、そのようなこだわりとは関係のない自由で新鮮な世界が在ることに目覚めさせて頂いた。
そして、総てを生かして止まない大慈悲心の御親、法華経に説かれるご本佛の御心に触れ、更に新鮮な世界そのものが既に自分の胸中にあったことをも知ることが出来た。