風の色

風の色(二十七)
2022.02.27

風の色(二十七)
日蓮聖人の御遺文の中に、『苦をば苦と悟り、楽をば楽とひらき、苦楽共に思い合せて南無妙法蓮華経とうち唱へ居させ給え此れ豈に自受法楽にあらずや』(四條金吾殿御返事)とある。
前回「やるべき仕事を求めて」-求道の道を-邁進するしかないといったが、いささかおおそれた表現で恐縮している。
私にとって娑婆の修行とは、苦修練行というよりは日々の暮らしそのものと言ってよい。
それは、お寺でも学校という職場でも家庭でも一般社会でも、何処においてもその時その場が修行であると思っている。
特にも私を取り巻く人間関係を抜きにしては考えられない。
私も含めて、自分が一番正しいと思い込んでいる節がある。
他人を羨んでは嫉妬心をおこしたり、また他人の欠点が目先にちらつき、愚痴とも思える悪口をなしてはますます自己嫌悪に陥るのがお定まりである。
この繰返しが自分なりの宿業を積み重ねていくことになる。
最後は、この世は嫌なところとなるが、結局、そこから避けられない宿命に置かれているのである。
冒頭の言葉は、何時も私の胸に置いてある。
しかし、悲しいことに業が先に出てしまい、折角の戒めも影を薄めてしまう。
だいたいこの世においては、楽なことより苦のほうが殆どを占めている。
だからこそ、その苦との暮らし如何んが、人生を寂しいものにするか豊かにするかとも言える。
誰しも心豊かでありたいと願う。
実は、こうした娑婆の修行なくしては、求道の原点に立てないと思っている。
それは、苦をば苦と悟り楽をば楽とひらくところから始めねばと思いつつ、所詮、人間一生、心の修養と肝に銘じている。