風の色
- 風の色(九)
- 2021.10.10
風の色(九)
私が最初に憧れた僧侶像といえば大袈裟だか、学生時代に言葉に尽くせない程お世話になった長運寺の御前様だった。
しぐさや言葉遣いも洒脱でその身全体が清楚で、特に頭面をきれいにされていたところが印象に残っている。
「まず僧侶の姿は頭面にあり」とまで思ったほどである。
或る日、御前様の曰く「頭を丸めて僧衣をまとえば誰でも僧侶と見るが、誰もが着る普段着の姿のままでも僧に見られるようにならなければ本物でない」と。
さすがは御前様の云われること。当時、有髪姿だった私はこの言葉どおりに生きることを真剣に心に誓ったつもりだったが、心の隅にどこか自分に都合の好い理屈でごまかしているような気がしていたのも事実であった。
卒業後、田舎の教師になっても、このことにこだわり続けて十数年経ってからのことである。
縁あって埼玉県にある布教養成所に入ることになった。
そこの化主である日蓮宗の布教師の第一人者であり、私の心の目を開かしめた最初の師である石川泰道先生の謦咳に接する機会に恵まれ、見事に前述の観念戯論が吹き飛ばされた。
師の曰く「殆どの僧侶は頭面に剃刀を当てるのが普通であるが、現今、果たして心に剃刀を当てる僧侶はありやいなや」と。
この時も有髪だった私は、この言葉を聞くや一念発起。
理屈だけが先立ち佛道への誓いは遠く心にまで届かない自分、まして頭面にさえも当てることが出来ないのが情け無く思い、帰山して直ぐ床屋さんへ飛び込んだ。
ようやく三回目にして頭面がきれいに丸くなった。
佛道はまず姿や形から入り、心に納まってそこから再び外に顕れる。
御前様の真意に一歩近づけたことに感涙一滴。