風の色

風の色(三)
2021.08.29

風の色(三)
雑巾掛けといえば今は懐かしい。
昔の本堂掃除のことである。
広くて隅から隅まで床拭きから佛具の磨きまで、無言だと退屈でたまらないので覚えたてのお経をそらんじながら手足を動かしていた。
特に真冬などは拭いた先から薄く氷が張り、拭く前より床の汚れがひどく、手が凍てつくほど痛いのに加えて、綺麗にならない悔しさは今も忘れない。
また、正面廊下は栗材だったのでいくら拭いても綺麗にならなかったが何度も雑巾の端でお題目をなぞるように拭いた頃(小学校五年生頃か)を思い出している。
それから、家族みんなで住まいの床が光るくらい磨いたし、井戸水の運搬、薪割りから風呂炊きと、当時ではどの家も大同小異だったと思う。
毎日決まって早朝のお経練習、師父と呼吸が合ったその一日は、私にとって吉日。
然し、月に数度とないから、あとは叱られるのが多く凶に近い日々だった。
もともと仕事が嫌で遊びに夢中になっていた頃だから仕事も好い加減、我が侭を咎められて一層反抗していた。所が、師父との呼吸が合う前の日の作務は不思議と気分よく立派に出来たことを、既にお経を読む声が示していた。
そうした毎日の体験から佛法の摂理というか道理というか、その因果関係を子供ながら身に感じたものだった。
今の仕合わせは今では遅いこと、そして過去を悔いてもはじまらないことを。
結句、今を大切に精進することは自明の理であるが、今もって実行出来ず困難なことを知っている。
子供の頃に素直に感じた摂理の方が佛意に叶っているのだろう。
信仰は水の如くありたい。ただ、困った時だけの祈りは虚しいことを子供の頃の記憶が教えてくれる。このことが今尚有り難いと思っている。