風の色

風の色(三十)
2022.03.27

風の色(三十)
前回に続きT婦人について触れてみたい。
彼女はまさに信仰一筋から得た豊富な知恵に満ちていた。
私が学生時代の頃、夏冬の休みになると一番先に訪問し、佛壇に向い法味を言上した後は、日が暮れるまで、特に大学で受講した内容を報告しながら佛法について語り合った。
当時は、一部で史学を専攻し、同じ大学の二部(夜間)で佛教学部の専門科目を受講していた。
たしか祖書学講義の中で茂田井先生が「この世に存在するすべての現象はすべて釈尊の説法(経典)の姿である云々」と述べられたことがどうしてもわからなかったことをT婦人にお話したことがあった。
ところが、彼女は、その話を聞くなり首を縦にふりながら語ったことがとても印象的であった。
「このように二人で向き合って法華経のお話をしていること自体が不思議なことなんですよね、この時をつくってくれたのは外でもない久遠の本佛様だと思うし、その久遠の本佛様が釈尊をこの娑婆国土に遣わされて有難い法華経という経典をこの私たちに遺してくれたればこそ、あなたとこうして出会えたのです。云々」
まるで時を超えて釈尊在世そのままが今と同時に存在するような、そんな感傷に耽ってしまっていた。
佛法の本質を弁えてなくては話せない言葉であった。
今、そのことを思い出しながら、どうしてあのような哲理を極めておられたのか今もってわからない。
勿論、それは沢山の本を読んで得たというような生半可なものでなく、心の奥に燦然と光る玉のような知恵があったにちがいない。
日蓮聖人の一説がそれを証明しているからである。
「譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し(中略)これを磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、云々」(一生成佛鈔)