風の色

祈りと信仰(四十一)
2023.09.03

祈りと信仰(四十一)
『聴聞する時は燃え立つばかりと思えども、遠ざかりぬれば捨つる心あり。』
(上野殿御返事)
ある方からこんな事をうかがいました。
Aさんは、毎朝、欠かさずお佛壇に佛飯をあげ、線香を供えて一生懸命になってご先祖様のため、商売繁盛、家内安全等とお経やお題目をあげており、私どもにはそうは真似のできない立派な信仰生活をなさっていると聞いております。
所が、胴に落ちないことがありまして、Aさんのような方が、どうしてひと一倍欲張りでさらには他人を平気で傷つけるような振る舞いをするのでしょうか。
日蓮聖人は、「佛様というのは、人の振る舞いである」とお説きになっておりますが、果たして、真実の信仰生活とは何でしょうか。と言うものでした
そこで、右の日蓮聖人のお言葉であります。
一見信仰のように見えることが、実は習慣的儀礼のようになってしまい、お寺に参って法話を聴聞するわけでもなく、たまに聴聞したところで日常の生活とは無縁であり、お題目信仰の真の意味が自分の人生の生き方とかみあっていないところから生ずるものなのです。
真のお題目信仰なら菩薩行として世のため他人のために尽くさずにおれない筈なのですが。
如何でしょうか。
よそごととして聞けないものと感じました。