風の色

祈りと信仰(十八)
2023.03.19

祈りと信仰(十八)
先頃、久しぶりに隣町にきた寄席を楽しんだ。
それもお馴染の三遊亭円楽師匠の口演となるとやはりどこか一味もふた味も違う。
その聴衆を魅了して離さない粋な話芸の陰には、きっと私どもには知ることの出来ない相当な努力と精進があったものと思う。
当夜の噺題も「芝浜」と古典落語の代表的なもの、その人情味溢れる名演技に心は踊った。
所で、今は亡き古今亭志ん生は、此の作品の名場面(薄らと明け白む海辺で大海を眺める感動のシーン)を演ずるために、何日も通って実際に冷たい潮風を吸いながら明け方の海辺に佇んで稽古したという。
ましてそれ以外の場面においておやである。
だから当然、聴く方にもその人情の機微が如実に伝わってくる。
佛教でいう感応である。謂うならば、この噺が心底から人の心を打つのは、噺家の普段から鍛え抜いて表れたその姿に共鳴しているからといえる。
近所に住むXさんは、老骨に鞭を打っては、毎朝登校する児童生徒の交通安全の為、風雪もろともせず口に笛をくわえ片手に旗をかざして道路を無事横断させて送り出している。
その姿も等しく心根錬磨の結実でないものはない。
芸に限らず日常生活何処においても、深く自己の内面を見つめ、心根を磨けば自然に行為動作となって表れるものである。
翻って、表だけで精一杯生きている己の姿如何にと問うこの頃である。
「おのれ磨かざれば、道見えず」を座右の銘にしたいものである