風の色

祈りと信仰(十一)
2023.01.29

祈りと信仰(十一)
かつて、日本の総理大臣が国政の舵取りを誤らないために、日頃から精神を鍛え平常心を身につけるため鎌倉まで出掛けて坐禅を組んだことは、新聞や雑誌などで既に知られている。
今風で云うと実に「カッコイイ」のである。
また、会社の幹部研修や一般に知識人といわれている人々の中にも、好んで坐禅が取り入れられている。
何か不思議な魅力があるようだ。確かに、静寂のままに自己との徹底した葛藤を通じて真の佛心を会得するに違いないが、むしろ、独房で従容として壁に向かっている死刑囚の姿の方が遥かに真実味があり嘘が無い。
要するに短期間で坐禅を修練して人間の精神活動が佛心と同様な状態であるかのような錯覚を起こしているだけである。
こういう現象を、ある禅の師家が「平常心」というより「横着心」と一刀両断している。
所で、我々は、他人事のようにこの「横着心」を笑っておれない。
今の世の中、何でも面倒臭がる傾向にある。
その場の窮地を免れるために出来るだけ楽する方途を探すように出来ている。
金銭一つで事足りる傾向が氾濫しているのが好い例である。
それが昂じて更に手抜きである。
楽することと手抜きは異曲同工である。
特に今は家庭(特に親子の関係)や教育に手抜きが波及しつつある。
何はともあれ、これだけは歯止めしなければなるまい。
「横着心」に付ける薬は無いが、せめて勧んで無心の菩薩行(世の為人の為に自分の身命を惜しまず尽くす行為)に精進するにこしたことはない。
まして、信心に手抜きなどがあつたら元もこもない。