風の色

祈りと信仰(五十一)
2023.11.19

祈りと信仰(五十一) 
ことわざに、「人の一寸は見ゆれど、我が一尺は見えず」とある。
日頃から、我が心の内を見ないでいると、つい他人の欠点だけが目につきやすいものである。
その心の中を覗いてみると、他人どころでないことに気がつく。
そこで、次の文である。
「しばしば他面を見るに或時は喜び、或時は瞋り、或時は平らかに、或時は貪り現じ、或時は痴を現じ、或時は諂曲なり、瞋るは地獄、貪るは餓鬼、痴は畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平かなるは人也。云々」
日蓮聖人の御遺文『観心本尊鈔』より
この文は、一般に六道輪廻と云って我々凡夫の心の有様を示されたものである。
人間は、一生の間この繰返しで終わったらどこにも救いがない。
どれを取っても苦の種だからである。
かといって、誰でも進んで悪を好む人はいないばかりか、出来ることなら心根は優しく、争いもなく皆等しく幸せを望んで生きようとしている。
一体何故だろうか。
それは、もともと佛様のような慈愛の心が同居しているからに他ならない。
それがたまたま隠れて見えないだけなのである。
つまり同居していながら中々出会えないでいる。
或る人は、形は人間なれど心は動物のような存在を真に人間の心たらしめるのが人生の目的と云ったが、当を得たものと云えよう。実は、本願と云って心に住む同居人(ご本佛様)はあなたと出会うことを願っている。