風の色
- 祈りと信仰(二十)
- 2023.04.02
祈りと信仰(二十)
資を求めて師を求めざるを嘆く。
「易」の蒙卦に、『道というものは先生(我)が自分から出かけていって生徒(童蒙)に教えるものではなく、生徒(童蒙)のほうから出向いて先生(我)に聞くのが至当である。』との内容が記されている。
今の世の中、溢れる情報社会に毒されて道がかすみかけて、転倒の末、せっかくの法灯の叡智もユータンしそうである。
幕末の私塾の盛んな頃は、師を求めて遊学する志士がいた。そこには、正しい道を求める姿があった。
尊の弟子の一人にマハー・カッサパ(摩訶迦葉)という人物がいた。
「ある日、師(釈尊)と一緒に歩いていた時、師が、ふと道のかたわらにある一樹で休息をとろうとされたのを見て、急いで樹下にいたり、わが僧衣を四つにたたんで座を設け、師に何卒これに坐して頂きたいと申し上げた。そして、快く腰をおろされている師に向かい、どうか私を憐れみ下されまして私の僧衣を納受して頂きたいと丁重に申し上げた。そこで、師は、カッサパよ、わたしの粗末な布の*糞掃衣を受けると申すかというと、カッサパは師の身につけたもうた粗衣の糞掃衣を是非頂戴させて頂きたいと深々と敬礼した。云々」とある。
*「ふんぞうえ」と読み、塵芥の中に捨てられていたぼろきれをつづり合わせてつくった衣。
彼にとってこれほどの喜びはなかったし、さぞ師の心と永遠につながっていることのあかしに感無量だったに違い無い。
まさに、求道の極意である。