風の色
- 祈りと信仰(三十四)
- 2023.07.09
- 祈りと信仰(三十四) 
 私たち凡夫にとって、この世において一体よりよい生き方とは何か、また人生の目的とは何でしょうか。
 誰しも、自分の望みどおりに暮らせたら何のわずらうことがありませんし、これ程の浄土はありません。
 しかしながら三毒五欲に染まった我々が日々に悩まずして暮らせるはずも無いのです。
 それだけに私どもの心に映るこの世は無常ではかなく、よけいに苦しみが多いと感ずるのも極めて当然なことと申せましょう。
 そこで、このような末世にどう生きたらよいかを釈尊は法華経に託しておかれました。
 それは、菩薩行であり、たやすく言えば世のため人のために尽くす振る舞いのことですが、この一言で言い切ってしまうほど容易なことではありません。
 普段から私どもは、互いに何かの役割をもってこの世に尽くしつつ生かされております。
 このこと自体が菩薩行に外なりませんが、正直言って真に心から生き甲斐を感じるまでに至っていないのは何故でしょうか。
 それはきっと、信仰の姿と人生の生き方がちぐはぐなところから生じているような気がしてなりませんが。
 そこで、このような問題について考える場合、いつの時代に於ても、どの様な社会にあっても、すべての人間が苦しみ、悩み、そして自分自身ばかりでなく多くの人々が同じような状態でいることを示唆して、その解脱(解き離れる・彼岸・涅槃の境地・〈ニルバーナ〉)の道を説かれたものが、仏教であり、釈尊の説かれた教えでもあります。
 いつも出発点がここにあることを銘記しておくべきものと思います。どの経典もこのことに対して様々な角度から説いたものと言えます。
 しかし、経典も最後の方になって法華経や涅槃経のように究極の教えを説いて人間の真実の姿とは何かを説いておかれました。
 法華経の法師品第十章に『衆生を愍むが故に、此の人間に生ずるなり云々』と。
 本来、私どもは、この世を希望して生れたものであることが説かれております。
 真実の自己とは、実にこの辺に見え隠れているようです。
 つまり、真の自己を知ることによって彼岸の道が開かれてくるものといえます
 《あなたの人生において必ず出会わなければならない人とは、自分です。》

