風の色

久遠のみち(十)
2022.10.09

久遠のみち(十)  
前回、マザーテレサの心の中に潜む神の認識は極めて法華経的だと云ったのは、ひたすら菩薩行(同じ佛性を持つ人間が他を救済する事によって同時に己の佛性をも磨かれていく実践的生活)に勇往邁進していたからである。
さて、彼女にとって「そうせずはにおれない」言動は、いったいどこから生まれたのだろうか。
たとえ路傍で死に逝く人々がいても、彼女は、シスターと共に朝夕の神への祈りの時間だけは欠かすことがなかったという。
その何より大切な祈りの中から育まれた自然にして最も崇高な働きかけでなくて何だろうと、思っている。
神の黙示なのかも知れない。彼女の意思の奥に潜む神秘な世界(久遠本佛)が現実に顕れてくる(救済活動)ためには、どんな高等な哲学も及ばない「信」による祈り以外にないことを示唆している。
その神秘世界の意思を神とも佛とも云っても過言ではない。
云うならば、人間の行い得る最尊の境地を我々に教えている。
日蓮大聖人は、この真理を八万法蔵に及ぶ経典の中から法華経(正しくは妙法蓮華経)こそが神秘世界の意思を説く根本経典であることを認識され、佛性開覚の祈りとして南無妙法蓮華経と唱える至心唱題を説いたのである。
世の中には、この祈りそのものの行為をいとも簡単に呪いの術などと下等な人間がやるものと誤って認識している人が多い。
かつて、宮沢賢治がその真理を深く覚って帰郷し、花巻市内を団扇太鼓を打ちながら御題目を唱えて行脚した時、孤高な修行者とは見ず、気が狂ったとまで評された。
俗世の偏見が知らず知らずに一人歩きしてきたのが今日の社会である。
真剣に耳を傾ける人々が少なくなった。