風の色

久遠のみち(八)
2022.09.25

久遠のみち(八)
前回、久遠のみちの原点が見える云々……。と記したが、私自身、ものを考える際に基本的には原点を踏まえているつもりである。
しかし、実際にはそれを等閑にしている場合が非常に多い。
そこで、もう一度、確認の為に数回前の「久遠のみち」で触れたー佛とは一体なんぞやーに立ち戻って考えて見たい。
佛とは何か。この単純にして判るようで判らない問いである。
一般的には、死人と直結したり、一方では摩訶不思議な存在として、崇高且つ最尊の超人格をさしている。
しかし、釈尊の覚り全体に照らしてみたら両方とも的はずれといえよう。
佛について予め誤解のないようにお断りしておきたい。
一般的に佛というと人格的なものを賦与する傾向は否めない事実である。
しかし、佛とは何かを理解するためには、佛界というように最初から個人格を超えた広がりの中で捉えるのが分かり易いと思う。
更に、この問いに解答を出すことが、久遠のみちをもっと具体的に明らかにしてくれるからである。
宮沢賢治が法華経や日蓮大聖人の御教えに感得して得た境地、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」は、人間凡夫の理想の生き方が佛を生きることであり、それが人間が求めて止まない究極の幸福と談じたものである。
ここで言う「世界全体が幸福に」が佛界であり、人類共通の理想をさしている。
従って、佛界(全体の幸福)は個々人が所有できるものではないということを前提にして「デクノボー精神」という菩薩行で生き通すことに徹したものである。
個人的には佛には成れないが菩薩として佛を生きる事の幸福を一心に「南無妙法蓮華経」に結んだと言える。
佛(界)の真相は目に見えないが、例外なく総ての生きとし生けるものの中に住み給うことだけは事実である