風の色

久遠のみち(二)
2022.07.31

久遠のみち(二)
本来佛教は、現実に生きて悩み苦しむ我々衆生の心の闇(人生苦)を解放する事(救いの道)をねらいとして釈尊によって説き明かされたものである。
ところが、残念ながら今日の佛教は、その本意とは逆に抹香臭いとか、単に祖先を弔う時の教えであるかのように認識されている。
要するに現実の生活とは無縁如きに思われているのである。
では一体その原因は何処にあるのかと問い糺せば、前回にも述べたように「葬式佛教でこと足れり」の寺院やそこに居座っている僧侶が一向に佛教の本意を省みないところにある。
又、一般の衆生も大部分は、それを義(よし)とまではしなくとも「僧侶はその仕事(?)でこと足れり」を半ば認めているのであるから、尚のこと佛教は、苔や埃で覆われた磨かざる金剛石のように現実に何も役に立たないものになっているのである。
一方、新興宗教の狙いは、そうした葬式佛教の矛盾を取り込みつつ、現実生活で悩乱する無知無防備の人心の隙間に入り込んで、現世利益の信心を奨めたから瞬く間に老若男女こぞって入信し、膨大な教団を作ってしまった。
既成の佛教教団は伝統的な檀家制度で何とか命脈を保ち、新興宗教は、正当な教義を欠いても教祖のカリスマ性によって人心をかどわかして教団の維持を計っているが、どちらも佛教の本意からはずれた自家撞着の誹りを免れない。
もし今後ともこのような現象が続くのであれば、永遠にこの世に真の浄土は顕現しないことになるが、誰一人これを望むものはいない筈である。
従って、佛教の本意をしっかりと見極めて現実に活かさない限り、尊い人間としてこの世に生を享けた意味がなく、宝(金剛石)の持ち腐れになってしまう。
では「佛教の本意とは何か?」―そもそも「佛(ほとけ)とは一体何なのか?」
次回以降からの中心となるテーマである。