風の色

久遠のみち(一)
2022.07.24

久遠のみち(一)
「久遠のみち」なる久遠について、日蓮大聖人ははたらかさず、つくろわず、もとのまま、と仰っておられる。
しかし、こう説明されても即座にピンとこない。
いったい何が働いていないのか、何を繕わないのか、何がもとの侭なのか、その‘何’の実体がわからない。
私の理解の中では、これを佛の真実の相(すがた)と考えている。
佛というと世間一般では、死人をさしていう。
だから人間は誰でも死ねば必ず佛にされてしまう。
ところで、佛教とは、当たり前のことだが佛の教えのことをさしている。
今から二千数百年前、釈尊が八十年の生涯をとおして覚られた内容を多くの弟子たちや民衆に向かって説法された教えのすべてである。
かりに、死んだ人を佛とすれば釈尊は、すべてあの世に逝った佛(いわゆる死人)たちの為に説いたことになる。
いわば佛を死人と見れば葬式=佛教ということになり、どこかおかしいことになる・・・
佛の本願(ねがい)は、誰もが佛の意(こころ)を持って佛のように生きて理想とする浄土をこの現実に顕して欲しいのである。
その担い手は、現実に生きている人間以外誰がその佛国土を築きあげることができるだろうか。
法華経を生きとおした宮沢賢治の描いた理想も同じであった。
日蓮大聖人は、釈尊の教えの真意(法華経)に迫って得た佛とは、現実に生きている我々衆生そのものであることを断言された。
別な表現でいえば我々は佛の実物ということになる。
まず世間一般でいう佛の見方を変えることによって、はじめて久遠の中身がおぼろげながら見えてくるような気がする。